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未来の会

「自己研鑽」に関する扱いの現在地

「自己研鑽」に関する扱いの現在地

曖昧な境界線に揺れる医師の学びと労働の実態

生労働省は2019年7月、24年4月の医師の働き方改革の施行に先駆け、「医師の研鑽に係る労働時間に関する考え方について」を通知で示した。そこでは「所定労働時間外に於ける研鑽が労働時間に該当するか否か」について、使用者の指揮命令下に置かれているかどうかを基準とすると明記されている。原則は明快に見える。だが現場の医師達にとって、この「指揮命令下」という概念こそが最大の曖昧地帯となっている。厚労省が通知に先立って公表した検討会資料でも、医師の研鑽については関係者の間で共通認識が無く、判断が困難になっていると整理されていた。曖昧さは現場の感覚論ではなく、制度運用上の課題として当初から認識されていたのである。

医師という職種の特殊性は、職業的使命感と業務の境界が溶け合っている点に在る。患者の命に関わる判断を下す為には、常に最新の知識をアップデートし続けなければならない。「医師は生涯勉強」という言葉は医療界の文化的規範として深く根付いており、それ自体を否定する医師は殆どいない。しかしその規範が、しばしば無償労働を正当化する論理に転化して来た事も事実である。

“学び”なのか“労働”なのか

日本病院会が19年度に実施した調査では、医師の「労働」と「自己研鑽」の具体的区分について、69.6%の病院が「国として基準を定めるべきだ」と回答した。一方で、90.9%は「自己研鑽全てを労働時間と見なすのは現実的ではない」と答えている。必要性は認識されているのに、現実には整理し切れていない。この捻じれが、制度上の「労働時間」と現場の感覚との乖離を端的に示している。しかも実際に院内で区分基準を設けている病院は35.3%に留まり、約3分の2の病院では、明文化が進んでいない。

では現場で自己研鑽として処理されている活動とは、具体的に何を指すのか。

学会発表の為の抄録作成、査読付き論文の執筆、症例カンファレンスの準備、臨床試験のデータ管理——これらは誰の為に行われているのか。患者の為、病院の為、或いは医師自身のキャリアの為。その比率は文脈によって異なるが、「病院が組織として求めている」という側面を無視する事は出来ない。

問題の核心は、「上司の指示が有るにも拘らず自己研鑽とされるケース」の存在である。例えば、部長から「来週のカンファレンスで発表して欲しい」と言われた専攻医が、その準備の為に費やす数時間は労働時間か否か。厚労省通知の基準に照らせば、明示的な指示が有れば労働時間に該当する可能性が高い。日本病院会の調査でも、「所属長が必要と認めたもの」は96%、「業務命令に基づく項目」は94%が労働時間に当たると認識されていた一方、「学会発表準備や論文執筆」を労働時間と認めた割合は12%に留まった。必要性の判断が入った瞬間に労働時間とされ易い活動と、研究・発表準備の様に自己研鑽に振り分けられ易い活動との落差は大きい。だが実態として、それが自己研鑽として処理されるケースは少なくない。

研修医・専攻医の状況は取り分け複雑である。基礎的な医学知識の学習、上級医への質問対応に備えた予習、翌日の手術や処置の確認作業——こうした行為は「将来の自分への投資」とも「現在の診療に直結する準備」とも解釈出来る。前者ならば自己研鑽、後者ならば労働である。しかし若手医師にとって、その2つを明確に切り分ける事は、現実的には不可能に近い。全国医師ユニオンは、知識や経験が乏しい研修医や専攻医にとって「研鑽」は「基礎学習」であり、患者の診断・治療に必要な標準的知識の学習は労働として扱うべきだという趣旨の声明を公表している。若手程、学びと労働の境界を理念ではなく勤務実態として受け止めざるを得ないのである。

実態は、施設の形態によって大きく異なる。大学病院では医局文化が色濃く残り、研究・教育・診療が渾然一体となって求められる。研究費の申請書作成や後輩医師への指導は「教育機関に勤務する上での職務」として自己研鑽に含まれ易い。厚労省の周知資料も、大学病院など教育・研究を本来業務に含む医師については、業務と研鑽の区分が難しいと明記している。公立病院では労務管理の厳格化が進む一方、慢性的な人手不足が現場の時間的余裕を奪い、「自己研鑽に充てる時間すら確保出来ない」という逆説的な訴えも有る。又、民間病院では施設毎の格差が著しく、労働時間管理が書類上のみで形骸化しているケースも報告されている。

対立の本質は何処に在るのか

師は自分で勉強する物だ」という考え方には、一定の合理性がある。専門職としての責任を全うする為には、制度に頼らず能動的に学び続ける姿勢が不可欠であり、それを他者に委ねる事には限界がある。この視点は、医師の職業倫理とも整合している。

しかし問題は、その勉強が診療に直結し、病院の診療機能を実質的に支えているにも拘らず、その対価が支払われていないという構造に在る。患者に安全な医療を提供する為の学習コストを、医師個人の自己投資として個人に負担させる事は、医療の質を医師の善意に依存させる事を意味する。

こうした切迫感は、若手医師側の公開声明にも表れている。全国医師ユニオンが研修医・専攻医の「基礎学習」は労働として扱うべきだと訴えた背景には、制度への不信感というよりも、「このままでは何もかも自己研鑽にされてしまう」という現場の危機感も有る。世代間の認識ギャップは、「自分達もそうしてきた」という経験則と、「それを当然とは思えない」という新世代の価値観の衝突として現れている。

そしてここに、構造的な問題が潜んでいる。「自己研鑽」という言葉が、労働時間の圧縮を目的とした隠れ蓑として機能し得るという現実である。労働時間の上限規制が厳格化されればされる程、管理者側にとっては一部の業務を「自己研鑽」に振り分けるインセンティブが生まれる。規制の強化が新たな抜け穴を生むというパラドックスは、制度設計の難しさを示しているが、同時に「自己研鑽」という言葉そのものが持つ危うさをも照射している。

自己研鑽の現在地と、これからのルール

では、あらゆる学習活動を一律に労働時間に算入すればよいのか。そう単純でもない。知的好奇心に基づく自発的な学習、学会参加、文献購読まで一律に業務として管理すれば、専門職に求められる知的自律性を損なう恐れが有る。必要なのは、学びを管理し尽くす事ではなく、労働と自己研鑽の境界を可視化する事である。

現実的に求められるのは、施設内での明文化と説明責任だ。厚労省通知が示す3つの軸——①使用者の指示が有るか、②診療に直結するか、③義務としての性質を持つか——を、各病院が具体例に落とし込み、管理者と勤務医の間で共有する事が最低限必要になる。日本病院会の調査で、多くの病院が国による基準整備を求めながら、自院では明文化に至っていない実態が示された点は、この課題の重さを物語る。曖昧さを放置したまま「自己研鑽」と処理する事は、法的リスクを先送りするに等しい。

個々の勤務医にとっても、労働法の基本を知っておく事は自衛の第一歩となる。指示の有無を記録に残す事、院内の労働相談窓口を利用する事、必要に応じて労働基準監督署や医師ユニオンなど外部機関に相談する事。こうした手段を知っているか否かで、置かれた立場は大きく変わる。

結局、問われているのは、医療の質が何によって支えられているかである。診療ガイドライン、設備、チーム医療の体制。その基盤には、医師が継続的に学び続ける事への期待が有る。だが、その期待が適切な報酬や環境整備を欠いたまま、「使命感」の名で無償労働に転化してきた歴史は直視されなければならない。

「自己研鑽」の再定義とは、学びそのものを否定する事ではない。善意と犠牲に依存する例外状態から、持続可能な制度の中へと位置付け直す事である。又、その転換無しに推し進められる医師の働き方改革は、単なる書類上の改革に留まってしまうのではないだろうか。

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