
早期発見と治療の鍵を握る大規模言語モデル
AI(Artificial Intelligence=人工知能)の医療分野への浸透、特に生成AIの進展は、診断精度の向上と医療業務の効率化という2つの軸で大きな変革をもたらしている。現状では画像診断支援システムが肺がん検出で94.4%の正答率を達成し、内視鏡検査では熟練医を上回る98%の病変発見率を記録する等、早期発見による治療成果向上が顕著である。加えて、多忙を極める医師や医療スタッフの負担軽減を目指す「医師の働き方改革」の推進に於いて、AIの果たす役割は今後更に重要になるだろう。
一方で、AIの進展に伴い、個人情報保護や倫理的課題への対応が急務となっている。医療データの安全性確保やAIの意思決定プロセスの透明性は、患者との信頼関係を維持する上で不可欠だ。こうした課題に対処しつつ、AIの恩恵を最大限に引き出す為には、国の関係機関や医療現場が一体となり、適切な制度設計やガイドラインの整備を進める事が求められる。
AIでノーベル化学賞 日本の遅れを危惧
医療・ヘルスケア分野でのAI活用は、海外が先行している事例もある。特にインパクトが大きかったのが、2024年にノーベル化学賞を受賞したデミス・ハサビス氏らの存在だ。ハサビス氏はイギリスのグーグル・ディープマインド社の最高経営責任者(CEO)として、アメリカ・ワシントン大学のデイビッド・ベイカー教授、ジョン・M・ジャンパー氏と協力してたんぱく質質の構造を推定するAI「Alpha Fold(アルファフォールド)2」を開発し、3氏でノーベル賞に輝いた。
抗体や筋肉等、人の生命と関わりが深いたんぱく質は、DNA配列からどの様に3次元構造に折り畳まれて機能しているかを理解する事が長年の難題だった。それをアルファフォールドにたんぱく質とアミノ酸の繋がりを学習させる事で、高精度に折り畳まれた状態の立体構造を予測する事に成功した。これ迄多くの研究者が特定して来た2億個以上のたんぱく質の構造予測に繋がったという。
アルファフォールドは、より良いワクチン開発や創薬の分野で応用されており、オープンAIとして公開され、生物学の進歩に寄与する事も期待されている。先進的な研究をリードしているディープマインドは、10年にハサビス氏らがロンドンで設立。14年にアメリカの巨大IT企業Googleが買収した事で潤沢な資金を得て研究を加速させて来た。
アメリカ・スタンフォード大学の推計によると、23年のAIに関する各国の民間投資額は、アメリカが672億2千万ドル(約10兆円)で首位。2位の中国は77億6千万ドル、3位のイギリスは37億8千万ドルだった。日本は6億8千万ドルで12位に留まり、アメリカとは100倍近い差が有る。
アルファフォールドは既に新バージョンの「3」が開発され、たんぱく質とDNA、RNA、金属イオンといった原子がどの様に複合的に作用しているかを予測出来る。体内でのたんぱく質とDNAの関与を深く理解する事に繋がる可能性が有るという。
こうした現状について慶應義塾大学理工学部の栗原聡教授は、日本の研究開発の遅れを危惧する。24年11月に中外製薬が開催したカンファレンス「CHUGAI INNOVATION DAY 2024」で登壇した栗原教授は、「AIを使いこなすには人間の多様性や適応力が不可欠で、完全に置いて行かれない為には日本社会も個々が主体的に動く必要が有る」と話した。
実証実験でAIが脳梗塞予防に繋がった例も
こうした中、日本でもAIを医療現場で活用する取り組みは進められている。国立がん研究センターと日本電気(NEC)は共同で、大腸がん等を内視鏡で発見するAIが搭載された診断支援医療機器ソフトウェアを開発。20年に日本で承認され、同年に欧州でもCEマークの基準を満たした。25万枚もの画像をAIに学習させ、診察しながらリアルタイムで画像を解析する事で、がんの見逃し回避の可能性を高められるという。
AIを搭載した医療機器を開発する意図について、同研究所医療AI開発分野の浜本隆二分野長は「常に考えているのは実臨床応用を目指す事、研究の為の研究ではなく、患者さんの為の研究を推進する事。AIを活用出来れば、本来医師がしなければならない患者と向き合う時間を増やす事が出来る」と話す。
社会実験として地域でAIの可能性を探る動きも有る。静岡市清水区では、21年度から静岡市と静岡市清水医師会、東京科学大学が連携して「清水区脳梗塞予防実証実験」に取り組んでいる。AIを用いて心房細動を早期発見する事により、脳梗塞の予防に繋げるプロジェクトだ。
静岡市のまとめによると、23年度迄に延べ835人が実証実験に参加し、その内14人に「隠れ心房細動」が見つかったという。心房細動は脳梗塞の原因になり得ると考えられているが、数分間の心電図の診断だけでは分からないケースも有る。そうした、医師の目視では発見が難しい様な小さな異変であっても、AIが診断をサポートする事で早期発見が可能になり、治療に繋がった事になる。浜本分野長は「医療AIが単に研究レベルではなく、実際の臨床に生かされ、社会実装される時代が来ている」と語る。今後、こうした取り組みのデータを元に、現場への更なるAI導入事例が増えて行く事が期待される。
日本語対応の言語モデルや個人情報保護が課題
AIの社会実装が進み、日本の医療・ヘルスケアの現場での活用が一層の現実味を帯びて来ると、次はそのAIが日本語に対応しているかどうかが重要な要素となる。そこで期待される技術の1つが大規模言語モデル(LLM=Large Language Model)だ。LLMは最新のものでは1兆を超える様な膨大なデータやパラメータをAIに学習させる事で、質問に対する答え等を導き出す仕組みを持つ。医療現場では診察や手術の正確性の確認等に応用が検討されており、既にNECが生成AIを搭載した電子カルテシステム「MegaOak/iS(メガオーク アイエス)」を販売している。
LLMの開発に取り組んでいる東京科学大学情報工学院の岡崎直観教授は、「AIを使う事で人間の仕事を効率化出来る。医療従事者は知識の向上や手術・診断の支援、患者は疾患の早期発見や予防といったメリットを受けられる。又、仕事が自動化される事でストレスの無い社会へと進んで行けば良い」と語る。
最新のLLMは大学院レベルのディスカッションが出来る程に迄進化し、テストの手書きの答案をAIで自動判定するといった事も可能になっているという。
医師と患者がコミュニケーションを取る日本語に対応する為に、岡崎教授らは、東京科学大と産業技術総合研究所の協力でLLM「Swallow」を開発した。日本の医療現場での応用を視野に入れ、AIに日本語を学習させる事で日本語に強いのが特長。ダウンロードして利用出来るローカルLLMで、情報管理に注意が必要な医療分野でも使い易い形を採っている。
但し、医療現場でのLLMの実用は未だ一部であり、医師の診療行為用語の生成や、処方箋を書くといったタスクは研究が進んでいない現状も有る。岡崎教授は「AIの評価の中心が正解率で、公平性や偏り、有害度等が未だ重視されていないので、今後取り組んで行かなければならない」と課題を話す。
厚生労働省がAIの活用について医療機器に関する安全性、プライバシー保護の様な倫理的側面、研究開発の際のデータ活用等についてガイドラインを定めているが、日本では未だAIに関する法整備には至っていない。
欧州連合(EU)では、AIの安全性や信頼性を保ちながら活用やイノベーションを促進する独自のAI規制法が24年8月に発効された。中国でもAIの発展と応用、権利保護を目的に生成AIサービス利用暫定弁法が23年8月に施行されている。
日本でも医療分野で医師や患者が安心してAIを使える環境が整備され、今後様々な現場に応用されて行く事が期待される。
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