
急がれる国際診療の制度設計訪日外国人医療費の適正価格とは
2019年11月に短期滞在で来日した中国人女性が、コロナ禍で帰国困難となり在留資格を更新していたところ、22年1月に救急搬送され脳腫瘍・大腸がんと診断された。国立循環器病研究センターは、1点30円(日本人無保険者は10円)で算定し、計675万円を請求した。女性は帰国後23年に死去し、遺族が日本人同額分225万円を支払った上で、残る450万円の免除を求め、「国際人権規約に反する差別」と主張して提訴した。
本件は単なる一事例に留まらず、外国人に対する医療費請求は「外国人差別か、それとも制度上の必然か」という社会的議論を呼び起こしている。
訪日外国人医療が高額になる理由
訪日外国人の医療費が日本人の3倍に設定される背景には、医療現場固有の複層的なコスト構造が存在している。厚生労働省の「訪日外国人の診療価格算定方法マニュアル」に於ける研究では、咽頭炎で1.31倍、蕁麻疹で1.56倍、重症肺炎で3.66倍、大腿骨骨折手術で3.59倍といった疾患別の具体的倍数化の必要性が実証されている。
最も深刻な課題は医療通訳の確保問題である。19年の全国調査によると、病院単位での医療通訳配置率は僅か6.0%、電話通訳利用率も19.5%という低水準で、多くの医療機関で十分な言語対応体制が構築されていない。実際の診療現場では、通常15分で完了する初診時間に対し、通訳を要する外国人患者では平均45分から1時間を要するという実情が有る。
更に、専門的な医学用語を正確に翻訳出来る医療通訳者の絶対的不足が有り、特に夜間・休日の救急医療では適切な通訳者確保が困難を極める。医療機関が独自に医療通訳者を常勤雇用する場合、年間数百万円の人件費が発生する為、多くの機関では診療費全体への上乗せ方式でコスト転嫁を行っている。
未収金リスクも重大な経営課題である。厚労省の23年度調査では、外国人患者を受け入れた2813施設のうち18.3%で未収金が発生し、1件当たり最高1846万円の高額事例も報告されている。月間500万円を超える大規模未収金も確認されており、これらの財務リスクを見込んだ価格設定が広く採用されている。
加えて、救急搬送される外国人患者への対応では、家族への病状説明、治療方針決定、退院調整等、診療の全工程で通訳を介した丁寧なコミュニケーションが必要となり、医師・看護師・事務職員の業務負荷は格段に増大する。患者の宗教的信念や文化的背景への理解と配慮も求められ、これらは数値化困難な「見えないコスト」として、運営の多大な負担となっている。
厚労省担当者も「言葉の壁による負担等、必要経費を反映した算定を勧めている」と説明している。しかし現行制度では、これらの追加コストを適正かつ客観的に評価する統一的仕組みが整備されておらず、各医療機関の裁量判断に委ねられている。こうした実態を総合的に勘案すれば、外国人患者の診療に於ける料金倍増化は、単純な国籍差別ではなく、言語対応、通訳確保、未収金リスク、文化的配慮といった実際に発生する多様な追加コストを反映した合理的設定と評価出来る。
外国人への不当差別か、自由診療の範囲内か
これらを踏まえて、今回の訴訟に於ける最大の争点は、医療費の高額請求が「外国人である事を理由とした不当な差別」に該当するか、それとも「自由診療制度の枠組み内での合理的な価格設定」として正当化されるかという点である。
法的観点から検討すると、自由診療制度は契約自由の原則を基盤として成立している。この原則の下では、医療機関が提示した価格条件に患者側が同意する事で有効な契約関係が成立し、その後の料金請求は契約上の権利行使として正当化される。
本件に於いても入院時には自由診療での治療である事について適切な説明が行われ、患者側からの書面による同意が取得されている筈である。従って、純粋に形式的な法的評価に於いては患者の明示的同意に基づく有効な契約が成立していると判断される可能性が高い。遺族側が差別的な取り扱いを立証する為には、「病院側が国籍のみを判断基準として明示的に異なる料金体系を設定していた」という事実を客観的に証明する必要が有るが、病院側が17年から「外国人患者の方へのご案内」としてHPに明確に示している事からして、この立証は実務上相当な困難を伴うと予想される。
今後、この様に病院側に重い負荷が掛かる提訴が増えるとなれば、外国人の受入を取り止める病院が増える事が危惧される。外国人患者に対する言語の壁や文化的背景の相違による誤解等、今回の様な悲劇を防ぐ為に、より専門的な医療通訳や文化的仲介者を加えた丁寧な合意形成プロセスが求められるのではないか。日本の病院を守る意味でも自由診療ではあるものの厚労省としても防止策の検討をするべきだ。
国際的な人権規範の適用についても議論の焦点となっている。代理人弁護士は国際人権規約違反を主張しているが、国際人権規約は一般的に国内裁判所での直接的な請求根拠として機能しない事が多く、実際の法的判断に於いては日本国内法の解釈適用に於いて病院の行為が違法性を有するかが中心的な争点となるが、自由診療制度が法的に認められている現状で、病院の料金設定行為そのものを違法と断定する事は非常に難しい。
トラブル防止の為にも制度改正含め包括的改革を
今回の訴訟は、個別の請求問題に留まらず、訪日外国人医療に対する日本の医療制度が抱える課題を浮き彫りにしたと言えよう。訪日外国人の増加に伴い医療機関を訪れる外国人も今後さらに増える事が予想される中、医療費のトラブル防止に向け、制度改正も踏まえた包括的改革が不可欠である。
最も急務なのは、公的医療保険制度に於ける在留資格要件の抜本的見直しである。現行制度では在留期間90日超が加入要件とされているが、今回の様なコロナ禍による特別措置の「狭間」で無保険状態に陥る外国人が生じる事は制度設計上の欠陥と言わざるを得ない。短期滞在であっても一定期間以上の滞在が見込まれる場合には暫定的な保険加入を可能とする制度創設により、合理的な料金体系の構築が可能となる。
又、前述の様に現在の医療機関に於ける医療通訳体制は極めて不十分である。24時間365日対応可能な医療通訳制度の確立と、その費用を診療報酬に適正に反映させる仕組みが必要である。医療通訳は医療安全の根幹に関わる重要なインフラであり、その費用を医療機関の負担に委ねる現状は改められなければならない。
具体的には、医療通訳者を常勤として雇用している医療機関に対する公的補助金制度の創設を提案する。年間数百万円に及ぶ人件費負担を軽減する事で、医療機関による積極的な通訳者確保を促進し、外国人患者の診療に於ける追加的コストの社会的分担を実現する制度設計が求められる。
外国人患者の未収金問題は、個別医療機関では解決困難な構造的課題である。国や自治体による公的な未収金補償制度の創設を強く求めたい。又、訪日外国人の旅行保険加入義務化も検討すべきである。
現在、各医療機関が独自に設定している外国人患者への料金体系を標準化する必要が有る。厚生労働省の「訪日外国人の診療価格算定方法マニュアル」を更に発展させ、疾患別・重症度別の具体的な料金設定指針を示すべきである。これにより医療機関による恣意的な料金設定を防ぎ、合理的根拠に基づく透明性の高い料金体系の確立が可能となる。より根本的な解決策として入国前の健康チェック体制の強化を提案したい。重篤な既往歴や持病を有する外国人に対しては入国前に適切な保険加入や医療費支払い能力の確認を求める事で、入国後のトラブルを防止出来るだろう。
これらの提言の実現には医療界、行政、法曹界の連携が不可欠である。本訴訟を契機として外国人医療制度の抜本的改革に向けた議論が活発化し、国策として、外国人患者の受け入れをより推進する社会の実現を期待する。



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