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未来の会

第97回「日本の医療」を展望する世界目線 医師が組織に属するということ ⑪

第97回「日本の医療」を展望する世界目線 医師が組織に属するということ ⑪
医師は労働者か

東京都医師会の近未来医療会議でこんな趣旨の意見を小耳に挟んだ。「研修医は患者さんにもっと寄り添いたいのだが、労働時間の規制があり帰宅せざるを得ないと嘆いている」と言うのである。このような状況は、医師の働き方改革が制度として決定したため、全国で起きていると思われる。もちろん、筆者は働き方改革を否定するつもりはなく、逆に恩恵を被っている医師も多いと考える。

ただ、ここで考察したいのは、働き方改革が適用され、労働時間の規制が行われる医師は労働者か、という点である。

『資本論』から考える「労働者」の定義

最近、マルクスの『資本論』が再び脚光を浴びている。マルクスと言えば様々な視点があるが、その視点の1つに労働というものがあるのは間違いない。そこで、最近のベストセラーである斎藤幸平の『ゼロからの「資本論」』(NHK出版新書)を参考にして考察してみたい。

まずマルクスは過労死を問題にしている。そしてその背景には、労働者には二重の意味で自由があると言っている。それは、奴隷や身分制度といった不自由からの解放と、生産手段からフリーになってしまったことだという。これは、言い方を変えれば、労働者は好きな場所で好きな仕事をすることができるが、生きていくためには商品(今風に言えばサービスも含む)を買うしかなく、そのためにはお金が必要で、お金を得るためには労働を売るしかないといった考え方である。

同様に考えれば、医療もその提供が金銭を媒介にしている以上、医師は労働者であると言えるかもしれない(ちなみに、旧社会主義国は医療に関しては無償で提供していたので、医師=労働者ではなかったのかもしれないが、斎藤は旧社会主義国の国家統制を厳しく批判しているので、今回この点には触れない)。

また、こうした議論が厚生労働省の中でなされたかどうかわからないが、官僚風に言えば、労働基準法には労働者性の判断基準というものがあり、労働基準法研究会報告による「労働者」の判断は、労働基準法第9条により、「労働者」を「使用される者で、賃金を支払われる者をいう」と規定している。

この基準でいけば、開業医の先生方は当然、労働者には当たらないので、ここで問題になるのは勤務医や、最初に話題に挙げた研修医ということになる。高度プロフェッショナル制度など細い点に立ち入るつもりはないが、こうした判断基準があって、勤務医は労働者ということになったと思われる。

フリーランス医師についての続きの議論

前回、医局に属さないフリーランスの医師が増えている、また増えていくのではないかという話をした。フリーランスの医師は、医局のみならず医師会にも加入していないことが多いであろう。この場合、その人のよって立つものは、自らの医療技術と医師免許ということになる。

理屈を言えば、医師も市場原理にのっとり、需要があれば収入が得られる。しかも医師は専門的な仕事であるため、収入も高くなるといえる。しかしながら、本当にそうなのであろうか。

まず、医師の技術が正当に評価されうるかという議論がある。マーケティング論で私がよく引き合いに出す、信頼財の話である。もちろん、同じ専門家である医師同士なら、医師の技術が評価できるという前提はあろう。しかし、内科医が外科医の技術を評価できるのか、と考えると甚だ疑問であり、実は正確に医師の技術を評価できる存在というのは意外に少ないのではないか。

また医療の提供に関しては、まず診療を受ける、という信頼関係がないと成立しないというのが信頼財の議論である。つまり医師同士だけでなく、医師と患者の間にも信頼財の要素が必要なのだ。そのうえここでは値付けの議論をしているわけで、技術が高ければたくさんの報酬がもらえ、技術が低ければあまり報酬がもらえないとした時に、その技術自体の評価が難しいとなると、いきおい値付けそのものが難しいという話になる。従って、日本では医療は公定価格になっているわけだ。そして、技術に対する信頼を担保するために、医師免許のような国家資格や専門医資格があるのだとも言える。

言い換えれば、一部のゴッドハンドのような医師を除けば、なかなか適切な評価が難しいということであり、均質な(均質に見える)医療を提供するとなると、この後に述べる需要と供給のバランスが重要になってくる。簡単に言えば、技術が優れているからと言って必ずしも評価されるわけではなく、必要とされる場において医師免許そのもの(および医師しかできない行為)が評価されるということになる。

医師の数は本当に足りているのか

需給のバランスで言えば、医師の数は増えており、供給が多くなっているのは間違いない。しかし、医師の働き方改革が生み出す医師不足や地方での医師不足などを見れば、まだまだ「医師は足りない」という見方をした方がいいであろう。その意味で、医師という職業はまだ安泰である、という話はあり得る。だがそれは、労働の場所や診療科を選ばねばという前提だ。医師は不足しているように見えて、偏在している。それは、図(『日医総研リサーチ・レポートNo.126』より)をみても推測できる。

そして、都会においてフリーランスの医師が増えているという現状は、いずれの組織にも所属しない医師が増えていると言い換えてもいいであろう。

これも以前に触れた話であるが、アメリカでは医師がグループを組み、株式会社などを作って民間の医療保険会社と条件の交渉を行ったりしている。これは、医療の世界にも市場原理が働くからこそ、医師も、人数が少ない、あるいは1人であるということは弱者になりがちであり、それを防ぐためでもある。

アソシエーションの重要性

再度、話を『ゼロからの「資本論」』に戻すと、ドイツで職業別組合であるギルドが解体されていった歴史が述べられている。そして、人々の自発的な相互扶助・連帯を基礎としたアソシエーションの重要性を説いている。個人が互いに主体的、能動的、意識的に結びつき、相互の関わりによって形成された連合体を指すが、例を挙げれば、労働組合もアソシエーションの1つである。

医局や医師会がギルドかどうかは議論があろう。少なくとも全員加入ではないのでギルドとまでは言えない。だが医局や医師会は、アソシエーションであるとは言えるのではないか。その意味で医師は、多少古臭いと思われるかもしれないが、筆者のように医療現場から多少距離を置いたとしても、医師会に加入し、アソシエーションの仲間として活動すべきであると考える。

同時に、医局や医師会でなくてもいいが、何らかの組織(この場合会社のような組織も広義で言えば含まれる)に属することが、いかに専門家である医師とは言え、今後は必要になってくるのではないかと考えている。

これで、長く話してきた「医師が組織に属するということ」は、一旦終了になる。次回からは視点を変えて、最近よく聞く「ウエルネス」というものを考えてみたい。

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