地方独立行政法人 長野県立病院機構
長野県立木曽病院(長野県木曽郡)
産婦人科長
吉岡 郁郎/㊦
2011年1月、働き盛りだった51歳で、突然の脳出血に見舞われ、右半身の機能を失った。
伊那中央病院(長野県伊那市)で急性期の治療を終えると、鹿教湯三才山リハビリテーションセンター三才山病院(同・上田市)に転院した。新たな主治医から、脳の出血箇所のCT画像を前に、「体の右半分は動かせなくなったので、動かせるものを使っていきましょう」と説明を受けた。その意味をまだ正確には理解できず、大きなショックを受けることもなかった。
一方の妻は、吉岡は歩行と体を支えるのが精一杯で、医師の仕事に戻るのは難しいかもしれないと告げられていた。看護師資格を持つ妻は、中高生だった子どもたちにも病状を打ち明け、家族の行く末を真剣に案じていたという。
吉岡は、療法士の指示に従い日々のメニューを真剣にこなした。「小学校低学年の“優等生”の子のように従順だった」。リハビリを促すコツは、褒めることばかりではない。作業療法でオセロゲームをしていると、「そんな所に打つの珍しいな」と、次の一手であっさり形勢を逆転された。階段を昇り降りする訓練では、1回目に「それでは時間内に終わりませんね」とダメを出された。苛立ちを覚えたが、それが次の奮起につながった。
少しずつ未来が見えてきたが、まだ深刻さからは遠かった。3月11日、未曾有の東日本大震災が襲った。東北地方を中心とした被害の報に接し、「今は何もできないが、次に何か起きたら飛んでいこう」。楽観的だった。
産婦人科に戻れず復帰は老人保健施設へ
杖をついての歩行や、日常動作もスムーズになった。8月8日に退院の日を迎えた。久々に帰宅すると、療法士の判断で補助具の設置は必要なしと診断されたが、トイレで用を足すのも一苦労だった。
自分の立ち位置はさらにはっきりしてきた。もはや分娩で胎児を取り上げたり、メスを握ったりすることは叶わない。手術の助言ぐらいはできても、足下が覚束なくては足手まといになるだけ……。絶望から気を紛らわすため、さらにリハビリに注力した。合間に仏教に関する書を読んでみたが、心は救われなかった。
勤務先の木曽病院では、秋から復帰を目指したプログラムが用意されていた。その最中、かつて性教育を行った小学校から、再び依頼の電話がかかってきた。これなら今の自分でもこなせそうだと、少し心が上向いた。
しかし、院長からは、産婦人科の業務を大幅に縮小し、併設する介護老人保健施設(老健)に12年の年度明けから勤務するよう命じられた。入居者の健康管理を主体とする業務は産婦人科と全く勝手が違う。悔しさが募ったが、吉岡はここでも“優等生”を貫いた。男性を診るのは初めてだが、ソフトな語り口で親身に耳を傾けた。自分と同じく半身に麻痺を抱える人もいて、共感を覚えてもらえた。当人だけでなく家族の声もじっくり聞けた。「これまでの攻めの医療でなく、守りの医療を経験できた」。
近隣の施設の訪問診療にも出向くことになった。合間には地域の小中高校で性教育での講義もした。最初は杖をつく姿を凝視されるのが恥ずかしかった。それも克服し、病院内も外でも不自由な足で堂々と歩く。見栄っ張りなため、できるだけきれいに歩いたり、食べたりしようと心掛けている。聴診器や電子カルテの入力は、片手でこなせる。箸は左手で使えても、汁物がうまく食べられないのに閉口した。アイスクリームも誰かにカップを押さえていてもらわないと食べられないので、人前では食べないようにしていた。
体は回復しても、脳出血の心的外傷後ストレス障害(PTSD)に襲われた。老健は意に染まぬ仕事で、そのストレスも募った。訪問診療先で、脳卒中で寝たきり状態にある患者を診ると自らの病状が重なり、心がざわついた。
若い頃の吉岡は、人の話に耳を傾けようとしなかった。妻は当時、吉岡の耳に入るように、不登校の子や心を病む人に語り掛ける講話のカセットテープを毎日流していた。落ち込んでいた吉岡は、そのテープのことを思い出した。妻の計らいで、20年近く前のそのテープが日の目を見ることになった。
その講師である田中信生は、カウンセリングのスクールも主宰していた。実は田中はキリスト教の牧師で、講話やカウンセリングは聖書の教えをベースとしていた。吉岡の心が動いた。キリスト教では何事も「神の思し召し」、困難が与えられるのもそのためである。仏教が人間の過ちに対して慈悲を与えるのとは、根本的に異なる。吉岡の心は軽くなった。西洋医学や自然科学を学んだ自分にとって矛盾の少ないキリスト教の教義にひかれていった。
田中が本拠とする山形県米沢市の教会まで月に1度通い始めた。車を飛ばして片道8時間の運転も苦にせず、休憩中には研究論文のテーマを練った。教会で説教を聞き、その後は、信者たちの医療相談に応じる。19年には洗礼を受けたが、残念ながらコロナ禍で米沢へは2年以上通えていない。
老健で患者の声に耳を傾けたり、カウンセリングを学んだりするうちに、いつか本格的に取り組みたいと考えていた更年期を中心とした相談外来の夢がよみがえってきた。
更年期の不定愁訴の外来を開設
96年に母校である信州大学の産婦人科医局から木曽病院へ派遣された当初、期限は2年の約束だった。しかし、患者の便を考えれば短過ぎると、5年は勤めることを宣言した。その間に教授が代替わりし、ズルズルと任期が延びた。いつか大学に戻り、更年期の診療を専門的に究められると期待したが、実は大学病院にもその余裕はなかった。加えて、子どもたちも自然豊かな木曽を離れることを望まなかった。
そこで、以前はそうした更年期由来の不定愁訴の相談を勤務時間外の夕方に受けていたが、老健の傍ら、週半日の外来を始めることにした。予約は程なく埋まり、さらに枠を増やしてもらった。こうして老健を離れるための外堀を埋めると、院長に直訴して、15年から産婦人科に復帰した。
大病に倒れ10年余り、大過なく還暦も越えた。規則正しい勤務と適正な食生活に努め、降圧薬なども忘れず服用している。PTSDは乗り越えたとは言えないが、漢方薬を頓服のように用いている。
産婦人科医としては“半分”の仕事しか果たせなくなったが、相談外来、性教育、看護学校での教育など課された役割を大切にしている。新しい絆を築き、家族の関係は深まった。子どもたちは社会人となって自分の信じる道へと歩み出した。
21年、闘病やリハビリ中の心情を記した著作、『0歳の右半身と50歳の左半身』(一元社)を上梓した。今も後遺症から縦書きの識字に難があり、内容が頭に入ってこないため、この本も横書きだ。
更年期は、人生の後半で迎える試練の時だ。その先にあるのは老年期だが、吉岡はそれを嫌い、「黄金期」と呼ぶ。「人生とは、階段を昇って降りていくのではなく、ずっと昇りっぱなし。最後の1歩が天国への最初の階段だ」。自分も階段を昇り続けている。(敬称略)
【聞き手・構成】ジャーナリスト:塚﨑 朝子
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