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未来の会

第63回 医師が患者になって見えた事 43歳で大腸の摘出を余儀なくされる

第63回 医師が患者になって見えた事 43歳で大腸の摘出を余儀なくされる

社会医療法人同仁会 耳原総合病院(大阪府堺市)
理事長
耳原鳳クリニック 所長
田端 志郎/㊤

田端 志郎(たばた・しろう)1963年大阪府生まれ。89年大阪市立大学医学部卒業後、耳原総合病院に入職。循環期内科を経て、2006年から救急総合救急科に転じ副院長。20年から現職。

 人間味あふれる医療——いささか青臭い響きもある医療の原点を追って医師になり、ひたすら理想を求めて突き進んできた。循環器内科を専門に据えて順調にキャリアを積む中、40代で大腸を全摘する大病に見舞われ、方向転換を迫られることになった。

大腸憩室症を抱えて入院を繰り返す

 田端は1989年に大阪市立大学医学部を卒業すると、医局には所属せず、耳原総合病院に入職した。内科医として幅広く総合診療の能力を身に付けたかった。当時は、医学部を卒業するとすぐ専門科に入ることが多かったが、同院では3年間かけ、内科だけでなく小児科も外科もと、「スーパーローテーション」の先駆けのような研修を受けることができた。

 92年からは、循環器内科で専門の腕を磨いた。内視鏡やがんの診療に比べ、何となく自分に向いていると感じたのと、当時普及し始めていたカテーテル治療も面白かったからだ。心筋梗塞は時間を問わず起こる。緊急のカテーテル治療に呼ばれ、勤務が深夜に及ぶのは日常茶飯事だった。

 医師になって10年目を迎えた98年、勤務中の田端は激しい下腹部痛に襲われた。ただならぬことで、消化器内科ですぐ検査をしてもらった。腹部エコーや大腸内視鏡検査に加え、CTなどの画像検査で原因を探った末の診断は、「大腸憩室症」だった。田端の大腸(結腸)壁には、そこかしこに直径5〜10mmの袋(憩室)ができていた。そこに便などが入り込むと、感染から腹膜炎を起こし「憩室炎」となる。生来健康だった田端は、初めて自院に入院し、絶食と、点滴で抗生剤を投与する治療を受けた。1週間ほどで炎症が治まり、退院となった。

 大腸憩室症は耳慣れた疾患名で、自身でも患者を診察したことがあった。良性疾患で、さほど深刻には捉えていなかった。しかし憩室が解消されたわけではないため、それから年に1〜2回憩室炎を起こした。やがて出血も生じてきて、そのたびに短期の入院を繰り返し、整腸剤や止血剤の服薬が欠かせなくなった。憩室ができた原因は定かでないが、炎症や出血が起こるのは、過労で身体に大きな負荷がかかっているときが多かった。そう承知しつつも、仕事の手綱を緩めることはできなかった。

 消化器外科の担当医からは、 入院を繰り返すぐらいならばと、たびたび手術を勧められた。憩室が多発している結腸を摘出して、残した直腸と小腸をつなぐという。だが、大腸では水分や電解質が吸収される。もし切除すれば、その後はずっと下痢が続くだろう。30代でそんな生活になるのでは堪らない。また、全身麻酔のリスクも過剰に心配した。2人の子どもたちはまだ小学生だった。「がんなら即手術だが、万が一麻酔事故に遭わないとも限らない。憩室炎で命を落とすことはなかろう」。

 だましだまし仕事を続けるうち、2003年頃から炎症や出血の頻度が減った。治癒するはずもないが、治ったかのように思えた。しかし06年4月、久々に激痛に見舞われた。当時の田端は外来に病棟にと大車輪の働きで、じっくり療養する余裕はない。“苦肉の策”で、平日は通常通り働き、土日だけ入院して絶食プラス抗生物質で炎症を抑えた。しかし、入院中のある朝目覚めると、突然の大量下血が始まった。

 慌てて看護師を呼んだ。トイレに駆け込む間もなく、ポータブルトイレが見る見る鮮血で満たされる。数分置きにその繰り返しだ。朦朧としながら、何回目かにポータブルトイレにしゃがむと、そのまま意識を失った。

次に出血すれば命の保障はない

 気が付くとベッドに横たわり、鼻から酸素が投与されていた。血管造影で出血点を探しだし、緊急のカテーテル手術で金属コイルを詰めて、対症的に止血がなされたのだった。

 妻や子どもたちも病室に来ていた。医師からは、「次に出血したら死ぬ」と告げられた。血中のヘモグロビン値は7 g/dLと、貧血の基準となる13g/dLを大きく下回り、全身状態も悪化していた。大腸には無数の憩室があり、1カ所止血しても、その他の箇所から出血する可能性が高かった。姑息な治療は、限界に来ていた。「不十分な治療では治らへん。これまでは冷静な判断ができていなかった」。

 同僚の一大事に際し、消化器外科、内科、麻酔科、放射線科の医師たちが緊急のカンファレンスを持った。結論は、大腸摘出が最善というものだった。摘出後は、一時的に人工肛門を作る。全身状態の回復を待って、2回目の手術で残した直腸と小腸をつなぐ。田端には、「全摘」「人工肛門」「2回目の手術」、要点が手短に伝えられた。一方、元看護師の妻、そして両親には、詳細な説明がなされた。もはや手術は不可避だった。

「人の役に立つこと」を求めて 

 田端は1963年、大阪南部の岸和田市に生まれた。父は会社員で、母は専業主婦。小学校からブラスバンド部に入り、トランペットに夢中になった。テレビドラマにもなった話題作『白い巨塔』の原作(山崎豊子・作)を読み、野心的な主人公・財前五郎の同僚で、誠実な里見脩二の姿にひかれた。

 「人の役に立ちたい」一心で、医師になりたい旨を告げると、父からは「どんな仕事も人の役に立っている」と諭された。それでも、田端の本気を察すると、両親は医学部受験を応援してくれた。成績は良く、大阪府立岸和田高校を出て1浪の末、大阪市大に合格した。田端は泳げなかったが、医師には体力も必要だと、入学後は水泳部に身を置いて揉まれもした。

 また、「里見」のような医師ばかりではないことも次第に見えてきた。「これからの医者は儲からんよ」と言い放つ医師や、「専門の臓器やないから」と不十分なX線読影でも良しとする医師、また、生活保護の患者をあからさまに非難する医師もいた。

 現実に失望しかけていた頃、一足早く耳原総合病院に入職した先輩から実習に誘われた。病院の理念には「無差別・平等の医療」が掲げられ、医師たちも高い志を持っていた。田端は4年生から実習を重ね、そのまま研修医となった。

 10年目の医師となった田端が入院を繰り返していたことは、当時の院長や上司たちも承知していた。とは言え、常態化している激務の調整は困難だった。手術とセカンドオピニオンを勧められていたにもかかわらず、田端自身がそれを良しとしなかった。

 そんな田端だったが、大出血には抗えず、遂に大腸摘出の手術に臨んだ。翌朝目覚めたのは、集中治療室だった。

 鼻から胃まで経鼻経管栄養のチューブが通り、首には中心静脈カテーテル、腕にも2本の点滴。心電図モニターにつながれ、足には静脈血栓防止の弾性ストッキング、手の指にはパルスオキシメーター、尿道カテーテルも留置されていた。また、上腹部から下腹部まで大きなメスの跡と共に、右下腹部には人工肛門が造設され、さらに背中には硬膜外麻酔薬が入れられていた。腹部の傷からは激痛が走ったが、全身の管が邪魔して寝返りも打てなかった。(敬称略)

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