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未来の会

第14回 私と医療 ゲスト森下竜一 大阪大学大学院医学系研究科臨床遺伝子治療学 寄附講座教授

第14回 私と医療 ゲスト森下竜一 大阪大学大学院医学系研究科臨床遺伝子治療学 寄附講座教授

 

GUEST DATA 森下 竜一(もりした・りゅういち)
①生年月日:1962年5月12日 ②出身地:岡山県総社市 ③感動した本:「坂の上の雲」司馬遼太郎、「官僚たちの夏」城山三郎 ④恩師:大阪大学医学部第4内科教授 荻原俊男教授、大阪大学医学部遺伝子治療学 金田安史教授、スタンフォード大学医学部長 Victor J. Dzau教授 ⑤好きな言葉:吾唯足知(我、ただ足るを知る)、帰去来辞(いざ帰りなん、故郷へ)、立って半畳寝て一畳 ⑥幼少時代の夢:特にありませんが、自分にしか出来ない事をしてみたい ⑦日本の医療の将来に、頑張った人が報われるシステムを入れ込みたい
祖父母・父母・弟妹・子どもまで“医者家系”

 1962(昭和37)年5月12日、岡山県総社市生まれです。実家はJR伯備線「総社駅」の駅前で祖父が「森下病院」を営み、現在は弟が継いでいます。母方の祖母を含め、祖父母4人の内3人が医者、父母が医者、私の弟と妹も医者で、2人の子供は医学部です。私の竜一の「竜」は父の親戚の橋本龍伍(元厚生大臣)から取ったものです。ちなみに、父は日本医科大学の学生の頃、橋本龍伍氏宅に居候をし、橋本龍太郎先生と一緒に暮らしていました。中学校までは地元でしたが、78(昭和53)年に灘と武蔵を受験し、合格した武蔵高校に入学して初の東京暮らしを経験しました。武蔵は制服もなく、修学旅行も「やっても意味は無い」と在校時に中止になりました。

 当時の社会情勢から、政治社会的な話題に興味を持ち、「官僚たちの夏」のように経済産業省の官僚になろうと考えていましたが、父から「医者になっても官僚になれるぞ!」と説得され、浪人だけは嫌だったので東大受験を避け、81(昭和56)年に大阪大学医学部に入学。阪大時代はゴルフ部に入り、文字通り“ゴルフ三昧”でした。阪大は基本的に授業に出席する必要はなかったので、教授の顔も知らないまま卒業試験を受けに行くような状態でしたので“私は誰でしょう”という問題が出るという笑い話があった程です。それでも卒業時の成績は120番中93番で、下に30人がいました(笑)。その後、老年高血圧内科を担う「第4内科」に入局。当時は学士が多く、私のような直接大学院に行く院生はいなかったので「大切に扱ってくれるかも」という邪な考えがありました。そこで荻原俊男教授(当時:助教授)の薫陶を受ける事になり、萩原先生の束縛しない指導のお陰で研究の面白さを知りました。

“再現が出来ないとサイエンスとは言わない”

 その後、大阪医科大の宮崎瑞夫先生の研究室でも学び、ここでの縁で、91(平成3)年に循環器科研究員として“高血圧の研究のメッカ”でもある米・スタンフォード大学留学が決まりました。留学先の恩師スタンフォード大学Victor J. Dzau医学部長から「これから遺伝子治療をやりたいので渡米前に勉強をして来なさい」と言われ、遺伝子導入の方法を大阪大学医学部遺伝子治療学・金田安史教授から学び、金田先生が開発したオリジナルの技術「HVJリポソーム法」を携え渡米しました。

 当時、カテーテルで血管を広げた後の「再狭窄」が大きな問題で、この解決には遺伝子治療がいいのではと考え、研究に没頭。結果、核酸を抑える「アンチセンス」に成功しました。その時「論文を書く前に特許室に行って来い」と驚きの指示が有りました。特許の取得が次なる研究費調達に繋がる事、医学をベンチャー企業として産業に還元する事も学び、大学や研究所に巨額な研究費が集まる仕組みを垣間見る事が出来ました。残念ながら、日本の大学にはお金が集まりにくく、お金儲けの上手な人は反感を買う風潮があります。基本的に平等でないのがベンチャーの世界ですが、日本は結果が平等である事が重んじられ、アメリカはチャンスが平等である事を重んじます。これが大きな違いでしょう。

 帰国の際に、血管再生の遺伝子治療法を持ち帰ろうと特許を持つ会社に「貸して欲しい」と依頼するとバッサリと断られてしまいました。特許の大切さを強く実感しました。

米国人は不器用ですので「不器用な人でも再現が出来て初めてサイエンスである」「誰でも出来るようにしないと誰も認めない」と。Dzau氏からは“サイエンスとは……”を懇々と言い聞かせられました。この経験が「誰にでも使える医薬品を開発する」という私のベンチャーの原点です。

 98(平成10)年に帰国してからは、HGF=肝細胞増殖因子を見つけた大阪大学の中村敏一特任教授(当時:教授)とタッグを組み、HGFを利用した血管再生の治療を開始。翌年にアンジェスを設立し、3年後の2002(平成14)年に上場しました。嬉しかったですね。

 その翌年に大阪大学大学院医学系研究科臨床遺伝子治療学教授に就任。私の研究室は、遺伝子治療の臨床応用を主な目的に、臨床系講座として発足しました。国内初の「臨床」の名前を冠した遺伝子治療の研究室です。ここでは、新規の遺伝子治療法を開発するグループ、患者さんに応用出来る安全な遺伝子導入法を開発するグループ、実際に開発されたヒト遺伝子治療を臨床現場で推進するグループ等が活動しています。

 こうした研究開発の積み重ねもあり、19(令和元)年にHGF遺伝子治療薬コラテジェンを再生医療等製品の医薬品として正式に発売しました。その成果が新型コロナウイルスの「DNAワクチン」に繋がっています。

「国産ワクチン」の意義とは

 ワクチンとは“戦略物資”です。感染症で国が滅びる事があるので自前で対処出来る体制、つまり、ワクチンの研究開発・製造も含め自国で対処するのが国としての最低レベルの条件です。産学官民挙げての体制作りが必要だと痛感します。今の危機はファイザー、モデルナのRNAワクチンで乗り切れるかも知れませんが、再び未知のパンデミックが起こるかも知れません。

 我々がワクチンの研究開発をするか否か。大議論がありましたが、私は今やらないと後悔すると考えました。10年間培って来た技術で「やるべきだ」とグループ仲間と話しました。

 研究開発はブームがあります。遺伝子治療には一時期ブームの波が来ましたが、その後死亡事故等が起きて、日本では新規の遺伝子治療が中止になるような困難な局面に陥りました。日本では感染症の時代は終わったと、生活習慣病の薬の開発が中心になっていましたので、ワクチン開発メーカーも無くなり、今回は“一からのスタート”になりました。こんな事も“基盤が無い日本”に繋がっています。日本の外交戦略を考えた時に、どんな世界貢献が出来るか……それは公衆衛生領域だけではなく「安全保障領域」。その意味では、東南アジアの難病やウイルス感染症、そこに対するワクチン開発は、ASEAN諸国と日本で継続的に本来はやっておくべき事でした。ちゃんとやって来たかどうかは、日本が国際貢献する上で非常に大きなポイントです。日本の医療をもっとアジアや世界に活かしていく事が平和貢献に繋がります。

 座右の銘が「ケセラセラ」なので、「なるようになる」と思っていますが、基本的に他の人がやらないような事をやりたいですね。「何か楽しい事」と言ってはおかしいですが、自分だったら出来そうな事をやってみたいです。今、出来る事で、自分だからこそ出来る事に、とにかく全力で集中。そうすれば、自ずと結果はついて来ると思っています。

インタビューを終えて

「大阪に森下有り」の評判を聞いていながら、お会いする機会が無かったが、この取材を含め、2日間で3回も会う。弊社主催医療勉強会では講師役をお願いした。苦労話も実に明るく、説明が明快と好評だった。「必ず、次なるパンデミックが有ると考え準備を怠らない事」との言葉から国産ワクチン開発実現を感じた。ワイン通でもあり、食通でもあると聞いた。ケセラセラを座右の銘にする幅広い洒脱な話題を持ち合わせる研究者に驚かされた2日間だった。 (OJ)

ウルフギャング・ステーキハウス 六本木店

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