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未来の会

第15回 私と医療 ゲスト本間 之夫 日本赤十字社医療センター

第15回 私と医療 ゲスト本間 之夫 日本赤十字社医療センター
GUEST DATA 本間 之夫(ほんま・ゆきお)
①生年月日:1953年3月14日 ②出身地:京都府舞鶴市 ③感動した本:『単独行』 加藤文太郎 ④恩師:東京大学医学部泌尿器科 阿曽佳郎教授、同 河邉香月教授、国立がんセンター泌尿器科 垣添忠生先生 ⑤好きな言葉:空無(世に絶対的な正義は無く物事は流れで定まるという意味で、虚無主義ではない)⑥幼少時代の夢:宇宙飛行士 ⑦間質性膀胱炎の病態の解明と分類の確定、100歳迄元気に生きる。
生い立ち

 生まれ育ったのは、京都府の北部に位置する舞鶴市の街外れです。中学に進んだ年の1学期の事、英語で落第点をとりました。そこで必死に勉強したところ、見事に挽回出来て先生に褒めてもらったのです。これが成功体験となったのでしょうか、その頃から勉強に励むようになりました。高校は地元に進学し、2年生の時に父の転勤で川崎市に転居・転校しました。成績は良かったのですが、受験勉強をやり切った気がしなかったので、1年の浪人と予備校通学を許してもらい、1972年に東京大学理科Ⅲ類に合格しました。

登山の魅力にはまった大学時代

 最難関の大学に入学した筈でしたが、大学生活では心は満たされませんでした。勉学でも教養学部の物理や数学について行けず、中学の英語とは違って挽回出来ないまま何とか進学させてもらう有様でした。医学部進学後も勉学や医療に関心が持てず、政治的な活動も疎ましく感じていました。たまたま医学部の学生で作る鉄門山岳部に入った所、登山の魅力にはまり、最終学年には150日くらい山中で過ごす事とになりました。山岳部で運営する涸沢診療所にも関わり、そこで医学実習も受けました。死んでもおかしくないような危険な目にも遭いました。大げさに言えば、それ以後の時間は授かりもののような感覚でいます。

泌尿器科医

 卒業後には専門を泌尿器科と決め、母校の医局に入り、いくつかの研修病院を回りました。その間に、国立がんセンター病院の泌尿器科医で後にがんセンター総長となられた垣添忠生先生のご指導の下、膀胱発癌の研究を始めました。83年より2年間は米国のノースウェスタン大学に留学しました。帰国後も、研究分野を膀胱癌から前立腺癌に拡大して、発癌関連の研究を継続しました。87年に大学に戻りました。主任の阿曽佳郎教授は、学会の近代化、泌尿器科学の分野の拡張、日本の国際的地位の向上等に精力的に取り組まれておられ、そのお手伝いをさせて頂く機会を得ました。注目度が低かった排尿障害を担当するよう指示され、自分の視野が広がりました。やるべき事は沢山あり、国際的にも活躍の場を与えられました。後任の河邉香月教授も排尿障害の研究をしておられたので、この分野を更に深める事が出来ました。同時に病棟医長としても勤務し、2000年に東大分院の泌尿器科科長として転出しました。03年からは、泌尿器科の部長として日本赤十字社医療センターに赴任しました。臨床の一線で診療や手術に明け暮れる一方、過活動膀胱に特異的な症状スコアの作成や、排尿症状に関する全国の大規模疫学調査等を実施しました。その成果が学術誌や各種のガイドラインに多数引用され、08年には教室主任として母校に迎えられる事になりました。

泌尿器科教授として

 大学では、教室員の育成を第一にし、その研究心を鼓舞するよう努めました。世界初となる排尿障害に特化した講座(コンチネンス医学講座)を開設し、第100回記念日本泌尿器科学会総会を理事長・会長として主宰し、国際禁制学会の会長を務める等の実績も上げました。診療では、恐らく世界最大の間質性膀胱炎の患者コホートを作り、診療実績を上げると共に病態研究でも世界を牽引しました。要介護高齢者の尿失禁問題にも取り組み、排尿自立指導料の獲得等にも貢献しました。その一方で癌関連の研究も進め、我が国への導入期にあったロボット支援手術の普及に参画する機会も頂きました。何かと困難も有りましたが、計6名の教授が輩出する等、数々の有能な教室員の力強い支えに深く感謝しています。

病院長として

 教授任期を1年残した17年に、日本赤十字社医療センターに院長として赴任しました。人事と経営を担当する職位から見ると、景色はかなり違いました。ようやく慣れた頃に、この度の新型コロナウイルス感染症の流行です。大流行に見舞われた東京都の日赤病院として、その責務を果たすべく、多くの職員の助けを借りながら凌いで来ました。当院の職員は感染症にたじろぐ事無く対峙し、その使命感には頭が下がる思いです。他の分野でも優れた医療を実践しており、その面でも周囲から正当な評価をして頂けるように心を砕いている所です。

私と医療

 泌尿器科医は医師の3%程度です。どうして泌尿器科に進んだのか、尋ねられる事が有ります。余り人のいない領域を選んだというのが本音でしょう。これは、登山の嗜好とも一致します。医療は他人の病苦を何とかしたいという気持ちが原点です。登山も山が好きだという自然な感性が源泉になっています。いずれも常に危険に向き合い、危険回避の為に知性や体力を磨き、仲間との信頼関係も大切にします。手術中の難事への対処には山岳遭難への心構えが役に立ちました。

 私にとって因縁の深い病気は、間質性膀胱炎です。重症例は泌尿器科領域で唯一の指定難病となっています。この病気の問題は、一見健康そうに見える中年女性がしつこく膀胱痛を訴えるものの、尿所見を含む一般検査や膀胱鏡検査でも大した所見が無い為、医師は気のせいだと決めつけていた事です。自分もそうであったので、膀胱の器質的な疾患だと分かった時には医師として深く恥じ入りました。その思いをバネにして、世界初の診療ガイドラインを作成する等診断や治療の改善に努めました。併せて病態研究も進め、局所の免疫性炎症が原因である事を突き止めました。この研究をもう少し進めて、病態に基づいた治療体系を確立したいと願っています。

将来に向けて

 最大の懸念は日本の凋落です。この30年程は経済成長が殆ど無く、多くの指標・分野で停滞が続き、他国に置いて行かれています。国民の能力が発揮されていないという不全感が今の日本に漂っているのは確かです。このような時こそ歴史に学ぶべきです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」の通り、我々は愚かにも同じ過ちを何度も繰り返しています。今日の医学も、先人の成功と失敗の歴史の上に在る訳です。思いつきの改革に社会が流されて過たないよう願っています。

インタビューを終えて

日本赤十字社の使命の下で一致団結しコロナ感染拡大の有事に対処した。難しい舵取りを求められていた筈だが、下した判断は的確だった。トップには判断力・決断力が求められるが、この未曾有で前例の無いパンデミックの中で見事に応えた。名門鉄門山岳部で鍛えられた判断力は秀逸だ。将来を担う若者の為に日本の現状に警鐘を鳴らす。まだまだ活躍は広がる。

ベッラ・ヴィスタ

東京都千代田区紀尾井町4ー1
ホテルニューオータニ・ガーデンタワー40F
03-3238-0020 
12:00〜14:00(L.O.)※土日祝はビュッフェ11:30〜14:15
17:30〜20:00 (L.O.) 
https://www.newotani.co.jp/tokyo/restaurant/bellavista/
※営業日・時間に変更がある場合がございます。 店舗HPをご確認下さい。

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