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未来の会

第38回 私と医療 ゲスト 林 基弘 東京⼥⼦医科⼤学 脳神経外科学分野 教授 定位放射線治療部門長

第38回 私と医療 ゲスト 林 基弘 東京⼥⼦医科⼤学 脳神経外科学分野 教授 定位放射線治療部門長
至高の定位放射線治療を目指して
GUEST DATA:林 基弘(はやし・もとひろ)①生年月日:1965年9月13日 ②出身地:東京都 ③感動した本:『白い巨塔』山崎豊子 ④恩師:高倉公朋先生(東京女子医科大学脳神経外科教授)、堀智勝先生(東京女子医科大学脳神経外科教授)、ジャン・レジス先生(マルセイユ・ティモンヌ大学定位機能脳神経外科教授)⑤好きな言葉:「患者の前では医者らしくなく、医者の前ではより医者らしく」「非常識を未常識化する」「外来はこころの手術場である」⑥幼少時代の夢:アタッシュケースを片手に、世界中を飛び廻って活躍出来る人物 ⑦将来実現したい事:東京女子医科大学の復権/新しい形の診療体系を確立し「魅力と収益力」向上を目指す

人体の不思議に魅了された好奇心旺盛な少年

東京都世田谷区で生まれ育ち、区立東大原小学校(現・下北沢小学校)に通いました。小学2年の時、原因不明のアレルギーを発症し全身に紫斑が出て、嘔吐して苦しかったのを覚えています。連れられて行った国立小児病院(現・国立成育医療研究センター)で、サバとインフルエンザワクチンの同時摂取によるアレルギーと分かり治療をして貰った時には、将来は自分もこういう所で働く人になりたいと思いました。幼い頃から好奇心、探求心が旺盛で、物の仕組みが気になり何でも分解してみる事が好きでした。特に人の脳や体は神秘的で、理科の授業で人体の絵をノートに描くと、自分の好奇心にぴったりと嵌まる感覚が有りました。6年間通ったカトリック系の暁星中学校・高等学校では日常的に『ラ・マルセイエーズ』が歌われ、第2外国語としてフランス語に親しみました。

必ずしも、医師になりたいと思っていた訳ではありません。アタッシュケースを手に、世界を股に掛けられる様な人間になるのが夢でした。技術系の会社員であった父からも、進路は自由に決めなさいと言われていました。私自身も技術者として、MRIの様な医療機器を作る人間になるのも良いだろうと考えた事も有りました。

国立大への進学を決め、迷わず医師の道へ

群馬大学医学部に入学が決まると、医師になる心が一気に定まりました。先輩達の優しさと雰囲気の良さに惹かれ、全学硬式テニス部に入部しましたが、活動が始まってみると、そこは厳しい体育会系の世界。試合に負けて、2度ほど坊主になりました。それでも途中で挫折する事なく、5年生の東日本医科学生総合体育大会では副主将として出場し、銅メダルを取る事が出来ました。

大学を卒業すると同時に東京女子医科大学に赴任し、脳神経外科の道を選択しました。学生時代にテニスに打ち込んだ経験からスポーツ外科にも惹かれましたが、筋骨格系と言うよりは電子回路の様にシステマティックな神経系の方が自分にはフィットしていると感じ、脳神経外科の医局に入局しました。クモ膜下出血や脳出血で倒れて重篤な状況に陥る患者が少なくはなく、滅入る事も有りましたが、ご家族との会話を通して、命を扱う仕事に重みと遣り甲斐を感じました。執刀の機会も早くから与えて頂き、開頭手術の経験を積んでいきました。

大志を抱き、仏留学でガンマナイフの技術を習得

92年に高倉公朋先生が教授に就任された時、脳神経センターにガンマナイフが導入され、挑戦してみないかと勧められました。嘗て脳動静脈奇形で命を落とした親友も、0.1mm単位で病変を射抜くガンマナイフであれば救えたかも知れない。その思いも在り、開頭手術と並行してガンマナイフに取り組む様になりました。

5、6年して脳腫瘍や脳動静脈奇形の治療を1000例近く経験した頃、私のメンターとなる堀智勝先生が教授に就任しました。堀教授から、暁星高校の出身であればフランスに行くべきだと助言され、マルセイユ・ティモンヌ大学への3カ月間の短期留学を決めました。紺碧の地中海と白い街並みを思い浮かべて向かったマルセイユは治安が悪い上に、平日は朝5時から夜11時まで大学に監禁状態。しかし、そこでは日本ではほぼ行われていなかった機能性疾患の治療にガンマナイフが用いられ、正に目から鱗が落ちる体験の連続でした。脳腫瘍であればMRIで照射位置を確認出来ますが、機能性疾患の1つである三叉神経痛では、神経の位置が分かっても何処に照射すれば効くのかが一見して分からない。僅か10×3mmの神経の中に200もの照射ポイントが在り、その中から1点を見極めるのが難しいのです。この第一人者が、ジャン・レジス教授でした。約束の留学期間の最後の日、そのレジス教授に呼ばれ、次は有給雇用とするので戻って研究を続けて欲しいと言われたのは願ってもない事でした。堀教授からも、医局の為にガンマナイフの新しい技術を習得して来て欲しいと背中を押され、再びフランスへと渡りました。友人等に支えられてフランス語の学位論文を仕上げ、仏脳神経外科専門医師資格を取得して2002年に帰国しました。

日本からのエビデンスを海外へ発信

留学先から持ち帰ったアイデアを実証する為、帰国後は研究にも熱心に取り組みました。02年に、モルヒネを必要とするがん性疼痛の患者の下垂体にガンマナイフを照射すると、疼痛が改善する事を示した臨床論文を発表し、世界に名が知れる様になりました。患者さんに安心してガンマナイフの治療を受けて貰うには、基礎研究で根拠を示す事が必要だと考えていた私は、フランスからラット専用の照射フレームを取り寄せ、ガンマナイフの照射が神経の性質を変えて神経の再生を促す事をラットモデルで証明しました。そこから「ニューロモデュレーション」という言葉が世界中で流行しました。こうした実績が評価され、15年の第12回国際定位放射線治療学会学術大会(12th ISRS)の大会長に抜擢されたのだと思います。23年には三叉神経痛に対するガンマナイフの100例以上の長期成績(10年以上)を発表し、「日本人の三叉神経痛を治したい」という長年の思いを遂げる事が出来ました。気が付けば、私自身のガンマナイフの治療経験は1万5000症例になり、自信を持って治療に取り組んでいます。

患者と信頼関係を築き、社会へ戻れる医療を実践

日本の医療を求めて、海外から日々多くの外国人が訪れます。これは誇るべき事ですが、スピード感を持って確実に対応する事が難しく、外国人に優しいシステムとは言えません。女子医大では、私が相談役を務める国際医療交流推進機構(IMCS)の持つ豊富なノウハウの下、外国人が日本に求める真の医療を実践していくつもりです。又、各診療科で対応可能な治療・医師をパッケージ化して提供する準備も進めています。治療費を明瞭化し、医師の顔も見えるので、安心して治療に臨んで頂けると思います。

私が診療で心掛けているのは、患者さんを笑顔にする事。信頼関係を築く事で患者の不安が無くなり、治療がスムーズに運びます。46歳の時に心筋梗塞を患い、自らが患者になった事で、医師は病気を治すだけでは駄目なのだと痛感しました。「医療は人生を手術する」——これは今年5月に開催したガンマナイフ導入30周年記念講演で伝えたメッセージです。母校の暁星高校は今や医学部進学率が80%になり、後輩達の前で話をする機会も増えてきました。私の医師人生の締め括りとして、沢山の人に「医療とは何か」を伝えていきたいと思います。

インタビューを終えて
右: エグゼクティブシェフの一ノ宮義孝さん

以前、林先生を取材した際に驚いた。それは取材中に自身の研究を語るうち、表情が生き生きと輝きを増していったことだ。長く取材をしているが、そんな場面は初めてだった。得意とするガンマナイフ治療で「治し切る」という気概を持ち続ける良医であり、そのお陰で多くの患者が救われてきた。東京女子医科大に光が差した。(OJ)

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無休


協力:サントリーホールディングス株式会社

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