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医療・福祉の基盤を削減・縮小してきた「改革」の末路

医療・福祉の基盤を削減・縮小してきた「改革」の末路

国連の社会経済局は5月13日、2020年度の世界の経済成長率は前年比でマイナス3・2%になるという予測を発表した。ただしこの数値は、大半の国で新型コロナウイルスを封じ込めて経済活動を再開出来たら、という仮定に基づいている。もし先進国が今年度後半以降、再び感染拡大の第2波に襲われ、21年初頭までロックダウン(都市封鎖)や経済活動の制限を余儀なくされた場合には、マイナス4・9%にまで落ち込むという。

 いずれにせよ、「1930年代の世界恐慌以来の景気後退」になるというが、リーマンショック後の09年の世界経済の成長率がマイナス0・1%であった事を考えると、今回の国連の予測数値はまだ楽観的なように思える。

 何しろ今回のコロナ危機は金融メカニズムの不整合から生じたリーマンショックとはまるで次元が異なり、生命を優先するため人為的・強制的に経済活動と消費活動を同時に縮小するという前代未聞の価値破壊から生じているのだ。相手は人間が作り出したメカニズムと無縁で、完全なコントロールも不可能な新型ウイルスである以上、09年の水準で収まると考える方が無理だろう。

 長い人類の歴史から見て、感染症のパンデミック(世界的な大流行)は例外的な出来事ではなく、「第2波」に留まらない新たな感染症に今後人類が再び襲われても不思議ではない。そのため、現在課せられているのは、自然災害を除く「経済以外の次元で発生したリスク要因による経済的打撃」に対する備えの構築に他ならない。

コロナ対策の早急な教訓化を

 特に我が国ではコロナ危機への対応であまりに多くの問題が露呈し、混乱を招いた事もあり、早急に今年2月以降の経過の教訓化が求められている。そして、現時点で重点とすべきは、1980年以降定着してしまった「改革」と称する野放図な企業利益優先の傾向の抜本的見直しだろう。

 公共部門より「民間活力」に価値を置き、「効率性」を至上と見なす思考の根は、80年代の「土光臨調」から生じている。国民には「自助努力」を説きながら、不況になったり企業経営が危うくなったりすると、真っ先に政治献金で手なずけている政権与党に飛び付き、財政出動で「不要不急」な公共事業を乱発させて懐を潤してきた財界のトップの土光敏夫が「第二次臨時行政調査会」(1981年発足)の会長に収まり、国会を飛び越えて国政の方向を定めるようになった。その結果、巨大な歪みが生み出される。

 財政状態が第2次オイルショックのあおりで危機的になりながらも、土光は法人税の増税を許さない一方で医療や社会保障、年金の給付水準を低下させる事に重点を置く。本来、「行政改革」という公的論議が必要とされる場に、財界の「私益」が全面的に持ち込まれた結果だった。

 折しも、米国のレーガン政権と英国のサッチャー政権によって市場原理に基づく自由競争を絶対視し、規制緩和の強行と公的部門の縮小、一方での軍拡を特徴とする新自由主義が勃興した。時代的には、その日本版の端緒が「土光臨調」であった。ちなみに現在の世界で、新型コロナウイルスによる死者数でワースト2となっているのが、11万人を超えてまだ急増中の米国に次ぐ英国である事実(6月4日現在)は、新自由主義の実態と必ずしも無縁ではない。

 同時に我が国ではマスメディアの支援もあり、国民が自身に与えられているはずの「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(憲法第25条)を要求したり、その行使を試みるような態度があたかも「エゴ」であり、「自己責任」からの逸脱としての対象になるような倒錯した社会的集団意識が、「土光臨調ブーム」が去った後に根付いてしまった。

 そして90年代以降、「橋本規制緩和」や「小泉構造改革」を経て、今日の「安倍内閣の骨太方針」に至るまで、国民の生命や健康に直結するサービス制度の削減・縮小を狙う「改革」と称するものが一貫してもてはやされ続け、あるいは批判が極めて乏しい実態は、かつての「生活保護バッシング」に象徴されるこの社会的集団意識と一体の関係にあるように思われる。だが、その結果もたらされたものは、以下の例に見られるような荒廃状況でしかなかった。

●地域の公衆衛生の担い手である保健所は、1992年に全国で852あったが、2019年までに472とほぼ半減状態になった。

●全国の病床数は、1993年から2018年までの間に、約30万5000床削減され、病院自体も自治体病院が01年から17年までの間に113も消滅した。

●死因分類で見ると、「感染症および寄生虫」による死亡者は1996年の1万7742人が2018年には2万4127に増大し、特にインフルエンザは12年の1275人が18年に3462人になる等、増加傾向にある。だが、院内感染を防ぐ感染症病床は1996年の9716床が1758床にまで激減した。

●重病者用のICU(集中治療室)の病床数が、13年から19年の間だけで2889床から444床減らされて2445床になった。

経済の脆弱性の要因に転化

 以上は一例だが、コロナ危機に直撃された事により、こうした国民の公衆衛生・医療基盤の無残な削減が、日本経済の脆弱性の要因に転化したのは疑いない。死者・感染者を最小限に抑制し、経済活動を速やかに正常に戻すためには、まず何よりも徹底したPCR検査による早期発見と感染者の施設隔離、入院受診が基本となる。だが、それを実行するだけの組織的・人的基盤が、「経済性」優先の「改革」によって前述のように無残に破壊されてしまった。

 今や日本は、1日当たりのPCR検査の平均施工数は0・04という。イタリアの1・03、ドイツの0・68、韓国の0・22と比較しても大違いだ(人口1000人当たり。5月20日段階の過去1週間の数字)。日本医師会は5月13日に発表した報告書で、現在までPCR検査が進まなかった最大の理由は「全く財源が投入されていないため」と結論付けたが、医療や福祉が果たす役割を最初から縮小ありきで減じてきた「改革」の末路がこれだ。

 今、話題となっているイタリアの作家にして物理学者のパオロ・ジョルダーノ著による『コロナの時代の僕ら』に、「この大きな苦しみが無意味に過ぎ去ることを許してはいけない」という一節がある。

 「民間活力」を至上価値とし、むやみに公的部門を削減したがる「小さい政府」は、いったん経済次元で制御出来ないリスクに見舞われると脆さを露わにした。少なくとも今回のコロナ危機は、経済とは国民の「健康で文化的な最低限度の生活」を実現するための手段であって、利潤追求自体が目的ではない——という程度の常識に立ち返らないと、「苦しみが無意味に過ぎ去る」ことになる。新自由主義とその日本版の「改革」路線について、今ほど再考が迫られている時期は他にない。

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