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未来の会

「医療崩壊」を医療の身近さから考える②

「医療崩壊」を医療の身近さから考える②
資本主義の芽生え

 今回は、前回に引き続き、もう少し歴史を振り返ってみよう。

 ドイツの経済社会学者であるマックス・ウェーバーは、西欧近代の文明を他の文明から区別する根本的な原理を、「合理性」と仮定し、その発展の系譜を「現世の呪術からの解放(die Entzauberung der Welt)」と捉えた。そうした研究が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)に表されている。

 オランダ、イギリス、アメリカなどカルビニズムの影響が強い国では合理主義や資本主義が発達したが、イタリア、スペインのようなカトリック国やルター主義の強いドイツでは資本主義化が立ち遅れた。こうした現象は偶然ではなく、合理的な経営・経済活動を支える精神あるいは行動様式すなわち、資本主義の「精神」とカルビニズムの間に因果関係があるとウェーバーは考えた。

 カルビニズムは経済生活におけるある一面を促進した。それはそれ以前にはほとんどみることができなかったもの、すなわち倹約である。カルビニズムが倹約を奨励したことによって貯蓄、つまり所得を使いきってしまうことを意識的に避けることが美徳になった。これは、医療といった不測の事態に備えることにもつながる。

 同様に、それによって貯蓄(投資につながる)を生産目的のために用いることが、単なる利潤獲得の手段であるばかりでなく、信仰の手段となった。カルビニズムにより倹約が奨励されたことで、さまざまな報酬と同時に利子の支払いも認められるようになった。

 このようにして、資本主義は生まれ利益も正当化された。しかし、ここではアリストテレスの指摘のように利益を得るための商売、たとえば最近のファンドによる投資は必ずしも正当化されていない。その意味で、現代社会は、同じ資本主義といってもまた違う世界にいるのかもしれないが、この詳細は別の機会に譲りたい。また、医療機関の収益においてどの程度が適正か、言い換えれば、公定価格にせよ市場価格にせよ、どのくらいが医療サービス提供の「正当価格」なのか、という結論は出ていない。

 ついで、「正当価格」はわからないまでも、健康を害した時に何らかの救済措置があってしかるべきだ、という視点から考えてみよう。

保険が生まれる

 医療保険のはじまりが、1880年代のビスマルクによる社会保険制度の創設であることはよく知られている。

 この当時には、福祉社会を目指すという意図ははっきりしなかったが、その後1948年から62年に至るまで、ヨーロッパ諸国は、第1次世界大戦以前の1人当たりの経済成長率を、2倍ないしは3倍へ(そしてイタリアの場合には8倍へ)上昇させた。戦後の政府はいくつかの福祉政策や社会計画・政策を制度化したのである。それらはたとえば、公的健康保険、家族給付・家族手当のようなものである。さらに社会保障も改善した。

 しかし、生命保険は少し違っていた。文化や宗教は神聖な対象や関係を商品として市場交換することを禁止、あるいは制限する傾向がある。文化や宗教が経済的合理性を制限するのである。すなわち、神聖な対象である人間の命や死を市場交換の対象とする生命保険の普及過程に対して、社会・文化的価値が影響を与えるのである。

 では、どのようにして生命保険の企業家は生と死を金銭的に評価する、すなわち価格をつけることを可能にしたのであろうか。

 米国の生命保険会社は、火災保険会社や海上保険会社と比較して、文化的、宗教的価値への強力な挑戦とみなされ、大衆から頑固な抵抗に出会った。火災保険と海上保険は容易に発展したが、生命保険業は、19世紀前半にゆっくりとしたペースで発展し、1840年以降になって突然圧倒的な成功が生じ、70年代までに確固とした事業になった。

 この普及パターンについての経済学的説明として、40年代から60年代までの米国の経済成長、19世紀半ばの都市化、そして、攻撃的なマーケティング技術の採用があげられている。攻撃的なマーケティング技術とは、40年代に導入されたエージェント(代理店)制であり、顧客の家庭やオフィスでセールスマンによる説得と勧誘が積極的に行われたからだ、という。

 しかし別な解釈も有力であろう。すなわち19世紀前半にみられる米国の生命保険への抵抗は、死の物質主義的評価を非難する価値観、およびその遂行を死に依存する商業的な協定を心配する魔術的な信念と迷信の力の結果である、という解釈だ。

 ここでの価値観とは、人間の生と死が文化的、宗教的な観念であることを意味し、それが生と死を商品とみなすことへの文化的な抵抗を生み出したことを指す。また、魔術的な信念と迷信とは、夫が生命保険に加入すると早死にするという考え方である。

 経済学的説明と考えられる新しいマーケティング・システムは、生命保険に対する抵抗に対処するために、直接の対人的な説得・勧誘が必要であったので、新しく導入されたと考えられる。

 いずれにせよ、こういった動きによって、死亡した時に数千万円、といったある意味では死(命)に値段をつける行為は正当化され、日本においては生命保険の加入率が世界一になっているのである。

 ただし、言うまでもなく生命保険には「万が一への備え」という側面が強く、医療経済学や薬剤経済学が扱うような、1年延命にはいくらまで支払うというWTP(Willingness To Pay)のような生々しさは伴わない。

 ただ重要なことは、WTPは支払い者である患者の感じる価値が市場価格になっているという点である。ここに、費用積み上げ式ではない、もう1つの価格の決まり方が提起されるのである。

 このような変遷を経て、資本主義社会の中で医療保険をはじめとする保険制度が充実してきたわけである。つまり、収益を求める行動はある程度正当化され、一方ではうまくいかなかった人、健康を害してしまったような人に対しての救済策としての保険制度、あるいはもう少し積極的に社会保障を考える福祉国家政策が重視されるようになったのである。

 しかし、ここで風向きが変わってきた。すなわち、高齢化社会による医療費の高騰ないしは保険などで医療費を負担する人のお金の負担感、あるいは金銭の要因で診療を受けなくなるという問題である。自己負担の増加など医療費の増加を食い止めようとする動きはすべて、このお金の問題から生まれてきているといってもいい。

 ここから、公的皆保険が生まれてくるが、このあたりは書籍も多いので割愛しよう。

 資本主義では市場においてサービスを得る。その意味では日本では医療サービスも市場において交換されているといっていい。

対価としての医療

 交換の対価としてお金を支払えば、支払った金額あるいはその価値に見合った要求が出てくるのも自然である。これが患者のコスト意識であり、支払いたくなかったり、見合わないものと考えれば医療機関を受診しなかったりする。ひどい場合には、対価を支払わない場合もある。

 成功か失敗か、正しいか正しくないかは別にして、かなりの部分では患者は消費者、すなわち対価を払ってサービスを受ける、という意識になっていることをこれからの医療経営は重視しなければならない。

 しかし、今回のテーマである「医療の身近さ」という視点では、日本では、まだまだ患者側に対価の意識がなく、医療がまさに身近になっている、という点がポイントである。

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