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私の海外留学見聞録 ④ 〜公私共に充実したアメリカ生活〜

私の海外留学見聞録 ④ 〜公私共に充実したアメリカ生活〜

北村 唯一(きたむら・ただいち
東京大学名誉教授

小生は、1973年(昭和48年)3月に東京大学医学部を卒業し、直ぐに高安久雄教授の泌尿器科に入局しました。入局2年目に教授から与えられた研究テーマは「カルシウム代謝」、即ち尿路結石でした。

東大では尿中Mgを赤外線分光分析で測定していましたが、独学なのでうまく進みませんでした。その頃、米国で著名な結石の教授はUniversity of Texas, Health Science Center at Dallas(UTHSCD)内科のCharles Pak教授と聞き、小生は寒い所を好まない為、米国南部のこの地に2年間、家族を伴って留学しました。月給は1000ドルでした。

米国では教授が充分な研究費を持ち、かなり細かなテーマを別々に説明してくれた為、Pak教授の得意分野である尿中のCaやPのcrystallizationを測定することに決めました。これは、37℃の温浴で色々な濃度のCa液を調整し、尿中で結晶化する濃度を測定するというものです。また、尿路結石患者尿を0.25μm filterで濾過し、濾液を凍結乾燥させて、そのCa crystallizationを測定し、結晶阻止物質を同定するという仕事も行いました。この中で、0.25μm filterの注射器のピストンを手押しで行うと云う力仕事がありましたが、これは手にマメができる作業でした。

しかし、真面目に研究した結果、2年間で2本の英文論文を出版することができました。1報は「Kidney International」、もう1報は「Journal of Urology」で、泌尿器科関連のトップ・ジャーナルです。

さて、話を戻すと、小生がダラスに着いたのは79年6月30日のことでした。当初、マリオットホテルに宿泊していたのですが、Pak教授が「ホテルは高いから、取り敢えず自宅に来なさい」ということで、North DallasのPak教授の自宅に1週間程居候しました。

教授の家は3 bed roomとmaster bed roomの4部屋があり、小生に1部屋宛てがってくれました。奥さんも息子さんもいい人達で、次男のグレゴリー君とは裏の池で魚釣りなどをして遊びました。驚いたのは、小さな池の周囲に5〜6軒の家があり、その池は共用のようでした。平屋ですが立派な家で、何よりガレージに自動で開く扉があるのが素晴らしく、これは帰国後、早速自宅にセットした程でした。

その後、Pak教授の計らいでUTHSCDの寄宿寮に移りました。2週間程居ましたがこれが難物で、部屋は大学病院構内にあり個室なのですが、トイレは隣室の寮生と共用なのです。トイレの扉はこちらとあちらの両方から開く仕掛けになっており、おちおちとトイレに座っていることもできません。何とかこの苦境を脱し、Pak教授の推薦でNorth DallasのRichardson市のアパートの2階の1室に入居したのは、7月下旬のことでした。ここは2 bed roomで、バス、トイレも2つずつありましたので、やっと妻と2人の娘を東京から呼び寄せることができました。

夏休みが明け、娘たちがDover小学校に通うようになって驚いたのは、外国から来た子女の為にマンツーマンで英語を教えてくれたことです。数カ月程このような授業が続いた後、2人が英語を或る程度理解し、喋れるようになると、普通のクラスに入れて貰ったようです。算数は日米とも同じなので、非常に成績が良かったようです。その内友達もでき、妻もその母親らと仲良くなり、交流が始まりました。特にアパートの向かいの棟に住んでいるJohn、 Bonny夫妻とはよく遊びました。

ある時、妻がBonnyにマージャンのことを話したら「是非やりたい」とのこと。その内、小生がUTHSCDから18時頃に帰るのを待ち構えるようになり、毎晩のように麻雀大会を開催しました。Bonnyにハネ満という満貫の上の役を教えたら、「ハネムーン」と聞いたようで、その後我々の中ではハネ満は「ハネムーン」と呼ぶようになりました。実に楽しいアパート生活でした。

残念ながら、UTHSCDでのPak教授や教室員との写真は全く残っておらず、残っているのは、小生の家族との写真のみです。しかし、公私共にアメリカ生活を満喫して、81年6月30日に、無事帰朝したのでした。

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