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私の海外留学見聞録⑤ 〜肝臓移植の旅:米国UCLAから中国天津医科大学〜

私の海外留学見聞録⑤ 〜肝臓移植の旅:米国UCLAから中国天津医科大学〜

高野 靖悟(たかの・せいご
JA神奈川県厚生農業協同組合連合会 代表理事理事長
相模原協同病院 名誉院長

1979年、日本大学医学部を卒業後直ちに当時の日本大学医学部第3外科学教室(消化器外科)に入局した。83年、当時の国立立川病院(現災害医療センター)に出張となり、ここで鳥居病院長と出会ったことがその後の私の肝臓外科医への出発点となった。

私の受け持ち患者の中に大腸がんの肝転移の症例があった。鳥居院長は外科医であり、時々病室に現れた。その時「どうしてこの肝転移を切除しないのか。今、国立がんセンターでは肝切除が盛んに行われている。大学に帰る前にがんセンターへ行き見学して来なさい」と仰られ、紹介状まで書いていただいた。当時、国立がんセンター(現国立がん研究センター)肝臓外科には、長谷川博先生、山崎晋先生、そして幕内雅敏先生がおられ、肝硬変合併肝臓がんの外科的治療の黎明期であった。6カ月の研修後、教室に戻り肝切除の症例を手掛けることになったが、米国では臓器移植が成長期を迎えていた。そこで、湾岸戦争のあった91年、当時の田中主任教授にお願いして米国UCLAに1年間留学することになった。

当時のUCLAの肝移植グループは、ブスティル教授以下4人のスタッフで肝移植が行われていた。手術手技、術後管理は新鮮で、ブスティル教授の術中の勘の良さは大いに勉強になったが、それ以上に今となっては当たり前とも言える「チーム医療」がすでに確立されていることに驚いた。この肝移植グループのチーム医療には、医師、看護師のほかに薬剤師、栄養士、臨床心理士、ソーシャルワーカーが参加し、毎日行われていたカンファレンスではコーヒー片手に活発で自由な発言が行われており、自由の国アメリカの一部を垣間見た。また、米国全土に張り巡らされた臓器ネットワークにも驚いた。ドナー臓器が出るとすぐにこのネットワークによって臓器適合、運搬時間から移植施設が指定され、その施設からドナー病院に出発するシステムである。我々日本人医師も、車やヘリコプター、小型ジェット機を使い、ロサンゼルスから遠くはマイアミまで何度もドナー病院に赴いた。

帰国後は、教室内に肝移植グループを立ち上げ、脳死肝移植が認められていない中でも生体肝移植を目指して、毎週土曜日午後から犬での移植手術を行った。ちょうどその頃、中国の天津医科大学から1人の留学生が私のもとに来日した。中国医科大学(旧満州医科大学)を卒業後、中国天津医科大学外科学教室から国費留学生として2年間私たちとともに実験研究を行い、その後日本大学の博士号を取得した。その留学生は現在天津市第一中心医院院長の沈中陽先生である。中国へ帰国してから、脳死肝移植を行うので応援に来てくれとの電話があった。田中教授の許可をもらい、肝移植グループ総勢4名で中国に渡った。その当時の中国は、今の世界第2位の経済大国とは程遠く、大通りは自転車で溢れていた。そして、溢れていたのは自転車だけでなく、この病院の外来を訪れる患者も同様であった。95年8月、この天津市第一中心医院で肝臓移植を行った。その後も何度か中国に渡り、肝臓移植のほか学生の講義にも携わり、天津医科大学の客員教授になった。沈先生は度々来日され、日本外科学会でも発表された。天津市第一中心医院は中国の肝移植のメッカとなり、彼は中国肝移植学会の会長にもなった。

私の肝臓外科医としての歩みは国立がんセンターから始まり、米国UCLAそして天津市第一中心医院と続いていった。この間、多くの人との出会いが人生を変えていった。「人生は選択の連続だ」という一節は、恩師・田中教授がよく口にしていた言葉であるが、まさに人との出会いが私の人生を選択していったと思う。日本、米国、そして中国。それぞれ異なった文化の中で、末期肝疾患への肝移植によって患者を救おうという外科医の精神、チャレンジ精神はいずれも同じであり、若い外科医にはこのチャレンジ精神を忘れずに、心身ともに鍛えていってほしい。

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