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腎臓病の患者の生活を支えることが使命

腎臓病の患者の生活を支えることが使命

村上 穣(むらかみ・みのる)1979年東京都生まれ。2004年東京慈恵会医科大学卒業。佐久総合病院で臨床研修を受け、現在は腎臓内科副部長。


JA長野厚生連 佐久総合病院(長野県佐久市)
腎臓内科副部長
村上 穣/㊦

 小児期から慢性腎臓病を抱えながら、村上穣は医学部へ進み念願の医師になった。摂生した生活でも腎機能は徐々に衰え、医師5年目にして「透析か移植か」の決断を迫られる。

 2004年に初期臨床研修で佐久総合病院に着任後、最初の2年間は夜勤もこなしたが、腎臓内科に移ってからは深夜当直を外れ、日直だけを担当。主治医は上司で、誰より親身だった。

 医師の修業は、心身ともにハードだ。しかし、その時点で音を上げるほど体が参っていたわけでなく、予想通りのなりゆきを告げられたまでだ。移植も透析を始める前の方が生命予後にはプラスであり、将来の健康不安を払拭したかった。

 医師になってから、何人も人工透析を受ける患者を診ていた。病院には透析室があるが、週3回数時間も横たわり透析を受けることになれば、仕事も制限されるだろう。一方、腎臓移植には提供者を探すという難題があった。1997年の臓器移植法制定後も脳死になった人からのドナーは増えず、親族を頼るよりなかった。

 ドナーは健康な体にメスを入れ、腎臓が1つだけになるリスクも負う。村上は2007年に結婚して長男が生まれ、妻は2人目の子を身ごもっていた。2歳上の兄もいたが、長い将来を考えると、頼めるとしたら両親しかいなかった。共に60代、父はまだ会社勤めをしていた。健康体であれば、80歳ぐらいまではドナーになれる。しかし、すぐには言い出せず、忙しく研修に打ち込むことで、葛藤を紛らわせようとした。

母がドナーとなって移植手術を受ける

 しばらくして、思い切って東京の実家に電話をした。母はいつもながら、離れて暮らす息子の身を案じた。村上は、体調の変化と共に、透析と移植の選択肢があることを伝えた。後日、両親は連れ立って佐久にやってきた。

 診察に同席し、「移植ができるなら、是非私たちが腎臓を提供したい」と、父母は揃って明言してくれた。早速、父親が適否を調べる検査を受けたが、思いがけず心房細動が見つかった。血栓を予防する抗凝固薬などを服用しなくてはならなくなり、ドナーから除外された。次いで、母が検査を受け、全く問題のない健康体と診断された。

 村上は安堵する一方で、またも重圧がのしかかってきた。「本当に移植手術を進めて良いのだろうか。自分が透析に頼る生活を続ければいいだけではないか……」。悶々とした日々が続いた。

 腎移植では、ある程度自分の腎臓で持ちこたえられているうちは手術せず、最適なタイミングを見計らう必要があった。2011年2月25日、東京女子医科大学病院泌尿器科で、母をドナーとした腎移植手術が行われた。両親の便を考えると同時に、顔見知りのスタッフでは気恥ずかしいとの思いから、東京での手術を選んだ。佐久総合病院の腎臓移植は女子医大の泌尿器科医が担当しており、なじみの医師が執刀した。

 手術翌日、集中治療室(ICU)から一般病棟に移った。母と向き合うと照れくさく、言葉少なに礼を伝えた。母は、先天的な病気を持って生まれた我が子に負い目を感じていたのかもしれない。深い感謝の思いは、言葉では伝えきれない。

 実親の臓器であることから拒絶反応はなく、2週間で退院し、3カ月間の療養を経て、職場に復帰した。健常者の腎臓は2つ揃って100%だが、1つだけの村上は50%、しかも60代の母から受けた腎臓で、それなりにハンデはある。手術直後に落ち込んだ体力は次第に回復した。透析に至る前に移植手術を受けたため、体調が劇的に改善したという実感はないが、何も変わらず、当たり前に勤務を続けられることは、とても幸いなことだ。

当事者ができることを模索し法人を設立

 だが、腎臓内科で診療を深め、「移植外来」を担当する中で居たたまれない思いに襲われる。腎移植を望みながら、ドナーがいないために亡くなっていく患者を目の当たりにすると、後ろめたさを感じた。

 「健康な母を慢性腎臓病患者にしてまで、生体腎移植を受けたことは、果たして腎臓内科医として正しい選択だったのだろうか」

 うつうつとする気持ちを持て余す中で、2013年、京都大学大学院に入学した。医師になって10年目、休職という形で、病院から基本給をもらいながら学べる制度があった。透析の疫学について研究しようと思っていた。ある日、薬害エイズ当事者が話す特別講義を受けた。感銘を受けるとともに、自らのミッションに対する啓示を受けた。「腎移植を受けた自分にしかできないことがあった」。

 それは、臓器移植の啓発だった。日々接する移植を希望している患者のために、ドナー登録者を1人でも増やしたかった。当時から、母校の東京慈恵会医科大学で学生に講義をしていた。医学生や看護学生に協力してもらい、臓器移植をテーマに医療や看護の在り方を考える教育をした結果としてドナーカードの登録者が増加するかどうかを調べて、英文原著論文にまとめた。

 研究を進める中で、「ドナーだけでなく、社会に対して恩返しをしたい」という強い使命感が芽生えた。啓発に取り組むことで、腎臓病を抱えて生きる人の心の支えになることを目指した。

 2018年、京大での恩師らと共に一般社団法人「PeDAL(Patient Driven Academic League)」を立ち上げ、代表理事となった。患者の悩みや困難を少しでも解決するための研究を推進することを目的に、患者によって運営される研究団体であることを掲げた。患者が自身の病状を記録し、データベース化して医療にフィードバックする。 

 透析を受けている患者の2〜3割はうつ状態にあるという。医師は「(腎機能)数値が落ち着いているから大丈夫、治療を続けましょう」と告げる。しかし、村上は、それは医療者の目線にすぎないと感じている。「患者が望んでいるのは、数値の安定に加えて、より良く生きることだ。そこを支えるところまでが、医療ではないかと考えている」。

 移植手術から9年が経ったが、免疫抑制薬は量を減らしながら生涯飲み続けなくてはならない。免疫力が弱いためインフルエンザなどの感染症の患者と接触しないよう当直は免除してもらっているものの、専門の腎臓内科で全力投球している。

 朝は自宅で1人だけ蛋白制限食、昼と夜は病院で提供される腎臓病食を食べる。子どもたちも減塩の食事に慣れている。生ものの摂取も感染リスクがあるため、一家団欒の回転寿司は、村上が勤務でいない日に行くことになっている。村上は幼い頃から慢性腎臓病だったため、たばこはもちろん、飲酒も控えている。口にしたことがない酒の味は知らないが、人生は充実している。人より寿命は短いかもしれないが、移植した腎臓が衰えても、人工透析を受ければ良いと割り切れる。

 「7歳で病気が分かり、30年経ってようやく生き甲斐を見出せた。病気があったからこそだ」

 自分が病気と折り合いを付けたように、同じ腎臓病の患者たちにも、生き甲斐を見つけてほしいと伝え続けている。    (敬称略)

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