
五條 理志 (ごじょう・さとし)
京都府立医科大学 人工臓器・心臓移植再生医学
留学先: Harvard Medical School, TBRC(Transplantation Biology Research Center),
MGH (Massachusetts General Hospital)(1997年4月〜99年3月)
私は、国立循環器病研究センター名誉総長・北村惣一郎先生が主幹されていた奈良県立医科大学第三外科の心臓血管外科で医学博士を取得し、TBRC(Transplantation Biology Research Center)に2年間留学しました。帰国後は、許俊鋭先生率いる埼玉医科大学第一外科で研鑽を積み、心臓血管外科医としての基礎を学びながら、人工心臓を中心とした重症心不全治療に8年間従事。その後、髙本眞一先生が主導する東京大学心臓外科の寄附講座で再生医療の研究に取り組みました。2011年からは京都府立医科大学に招聘され、臨床を離れて細胞小器官への介入治療法開発を主眼とする研究を行い、19年にイスラエルと日本のベンチャーキャピタル(VC)から投資を受け、ミトコンドリア置換技術を基盤とした治療法を開発する法人を米デラウェア州に設立しました。21年には東京に子会社を設立、24年からはAMEDの支援の下、この会社を中心に京都大学免疫ゲノム医学講座・KiCONNECTと新しい細胞治療法の開発を行っています。
臨床から基礎研究、更に創薬ベンチャーのCSOやVCのアドバイザーまで、異色のキャリアを歩みながら、こうした多様な道が開かれる今の時代の日本にいられることを幸運に思います。新しい技術の社会実装を目指す今の仕事の基盤は、社会に還元してこその技術革新であるということを肌で感じたボストンでの2年間であったと思います。
2人のDavid
TBRCは50人を超える大規模なラボで、Molecular Biology、Cellular Biology、Immunology、Large Animal Biologyの4つのグループに分かれていました。私はDavid K. C. Cooper先生が率いるLarge Animal Groupに所属し、Pig to Baboonの異種移植(Xenotransplantation:Xeno)プロジェクトに参画。その実験環境は日本では考えられないほど充実しており、私も初めてBaboonに接しました。
Baboonへの手術は専門の麻酔医が担当し、人の臨床と同等の環境で実施されていました。週に1度主任教授のDavid H. Sachs先生の回診があり、MGH(Massachusetts General Hospital)から血液内科、移植科の教授たちも加わり、各動物の担当の研究者が病状を説明して、研究の進捗のブリーフィングが動物舎で行われる様子は、さながら臨床での教授回診を彷彿とさせるものでした。ただ、テクニシャンもフランクに意見を述べて、その意見をSachs先生もCooper先生もきちんと尊重し、厳しいディスカッションの中でもそれを貫かれている姿勢には感服したことを覚えています。
直属のCooper先生は、南アフリカにおいて世界初の心臓移植で助手を務めた心臓外科医であり、その後Xeno研究に転じ、世界的な牽引者となられました。当時のXeno研究はまだ黎明期で、移植臓器が数日間機能するのがやっとという段階でした。私はしばしばXenoの実現性に疑問を抱きましたが、そのたびにSachs先生とCooper先生から時に厳しく、時に優しく指導を受けました。2年目からは分子生物学のグループにも所属し、現在に繋がる基礎を学びました。しかし、どれだけ努力しても移植臓器はすぐに拒絶される状況が続きました。それでも、2人のDavidが諦めることは一切なく、強靭な信念を持ち続けていました。1回につき数百万円相当の費用がかかる実験を週に1度は行うにもかかわらず、進捗はごくわずかでした。それでも粘り強く研究を続ける2人の姿勢を間近で見て、私は自分の未熟さを痛感しました。

ボストンのバイオエコシステムと最先端研究の現場
私が関わった研究の膨大な費用は、日本とは比較にならないアメリカNIHの潤沢な研究費に支えられていました。研究室の隣のビルには世界の大手製薬会社やベンチャー企業が入居し、特にノバルティスや遺伝子組換えブタを製造する企業などが活発に活動しており、そこからの豊富な資金提供もありました。
彼らの視点は短期的な成功ではなく、長期的なイノベーションでした。例えば、当時の研究環境では、マウスの単一遺伝子をノックアウトするだけで論文が成立する時代でしたが、彼らは数十にも及ぶ内在性レトロウイルスをノックアウトするという壮大な計画を議論し、それを商品化するための戦略を練っていました。今ではそれが実現し、製品化されています。
当時のチャールズリバー沿いにはバイオジェンやジェンザイムといった創薬ベンチャーが次々と生まれ、mRNAワクチンのモデルナを主導したベンチャーキャピタル(VC)のフラッグシップ・パイオニアリングも誕生しました。特にケンドール・スクエアはバイオの中心地になりつつあり、その後ノバルティスが独立した研究所を設立し、ジョンソン・エンド・ジョンソンやファイザーも続きました。さらに、遺伝子編集技術CRISPRの拠点も立ち上がり、ボストンは「先端創薬のDrug Huntの地」となりました。その始まりが、私が所属していたMGH Eastにもありました。
大手製薬会社やバイオベンチャー、さらにそれらに出資するVCとのミーティングを毎週行い、彼らの思考や戦略を学ぶ機会を得たこと、そして産業界と協力して新技術の開発に挑戦する2人のDavidの姿勢を間近で見られたことは、かけがえのない経験でした。今、私自身も開発の困難に直面するたびに、彼らも同じように挑戦し続けていたのだろうと思い出します。
研究の転機とXenoへの再認識
研究者としての姿勢を学んだものの、当時の私はXenoの未来に確信を持てず、再生医療へと方向転換しました。しかし、大きな成果を得ることはできず、その後、細胞内小器官の研究に魅了され、新たな治療戦略の開発に取り組むことにしました。Xenoを諦めたものの、新技術を社会に導くという2人のDavidの想いは私の中に根付いていたようで、幸いにもVCの支援を受けて会社を設立しました。血液幹細胞のミトコンドリア置換の前臨床試験で思うような結果が出なかった頃、脳死患者へのブタ腎臓移植成功のニュースが飛び込み、本当に驚かされました。
時をおかず、心・腎不全の患者に対し、Compassionate useの枠組みでブタ臓器のXenoが実施されました。さらに、恩師であるCooper先生がこの進展についてコメントを発表され、その不屈の実行力に改めて驚かされました。彼らの半世紀にわたる研究がついに臨床へ到達したことを知り、胸が熱くなりました。加えて、留学時にお世話になったMGHの河合先生が今もこの分野を指導されていることを知り、その粘り強さと信念に深い敬意を抱くと共に、大きなエールを頂いたように感じました。
Harvard Medical Schoolに属するMGHを始めとする病院群には、VCから投資される金額が20年には2兆円を越え、毎年右肩上がりを続けています。一方、日本国内ですべてのVCが国内に投資している金額は5000〜8000億円と言われています。この劣勢を若い医学研究者が目の当たりにし、その人生の中で、その経験を礎に、光る成果を1つでも多く実現してほしいと思います。
私自身、まだまだ功なりといった所には辿り着いておらず、汗を流している最中ですが、私の経験が若い研究者の1人にでも届けば幸いです。

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