
陸前高田市国民健康保険広田診療所(岩手県陸前高田市)
所長
坪井 潤一/㊦
2022年5月4日、55歳の坪井は盛岡市の自宅で言葉を発せられずにいた。もし脳梗塞ならば、血栓回収が可能なゴールデンタイムは6時間以内、血栓溶解療法ならば4.5時間以内だ。異変は朝7時、妻の運転する車で、3月まで勤務していた岩手医科大学附属病院(紫波郡矢巾町)に8時に到着した。
急性脳梗塞が判明し集中治療室に
休日当直の神経内科医に、頭を指差し、身振り手振りで脳梗塞の可能性を訴えた。画像検査室まで車椅子で移動し、CT、MRIですぐに急性脳梗塞と診断がついた。抗血栓薬の内服や抗凝固薬の点滴を受けた後、病院の脳卒中ケアユニット(SCU)に運ばれた。血栓溶解薬や血栓回収術は施されなかった。梗塞が左中大脳動脈という重篤な部位だったためだ。
夕方5時過ぎ、SCUに横たわって1日を反芻した。麻痺はなく、手足は動かせた。運動野が無事なのは、不幸中の幸いだ。
言葉を習い始めの子どものように、「ア・イ・ウ・エ・オ」と、つぶやいた。少し安堵した。しかし、その先にあるカ行が言えず、愕然とした。五十音を思い浮かべることもできなかった。ただひたすらにア行を繰り返して唱え、眠りに落ちた。
翌5日こどもの日、「すべては夢であれば」と念じていたが、目覚めたのは無機質なSCUで、医療機器につながれていた。失語症は現実だが、どん底まで落ち込まないポジティブな性格だ。「梗塞により失われた細胞が再生することはないが、脳の可塑性を信じよう」。脳に刺激を与えると、壊死した部位の周囲にある神経細胞が新たな回路をつなげる「再編成能力」があるはずだ。
聞き取りにも記憶障害も問題がない。やがて、カ行やサ行も言えるようになった。規則性のない固有名詞は難しい。まず、自分の名前、妻、母、3人の子どもたちの名前を繰り返し唱えた。もう1つ大事なことは、診療所で聴診した所見を患者に伝えることだ。「心雑音があります」と、何とか言えるようになり、2日目で大きく前進した。だが、患者と会話できなければ、診療には復帰できない。勤務開始からわずか1カ月で、先の見えない休職となった。
3日目から一般病棟に移り、理学療法士と共に運動機能のリハビリも開始。エアロバイクを漕ぎ脳に酸素が行き渡ることは、脳の可塑性に大きなプラスになるはずだ。言語療法では計算に挑んだ。数字単体でなら書けたが、1の次が2、2の次が3である意味が理解できない。1+2=3が分からない。この時点で、失語症に高次脳機能障害を伴っていることを認識した。九九も五十音と同様に暗唱はできたが、ただ暗記しているだけだった。1桁の加減算でもできないものがあり、繰り上がり、繰り下がりに至ってはほとんどできなかった。
4日目、大学時代から愛唱しているヒット曲を口ずさんでみた。メロディーは頭に入っているのに、うまく歌詞が載せられない。妻に頼んで、「100マス計算」の練習帳を買ってきてもらった。足し算の正答率は70%、引き算は半分にも満たなかった。
5日目、作業療法が始まり、ブロック組み替えで空間認知のトレーニングをした。理学療法では、最大負荷でエアロバイクを漕いだ。その後院内を歩き回り、7日目には1日1万2000歩を超えた。言語聴覚士による検査では、助詞の使い方語順など、日本語独特の表現ができなかった。専門リハビリは1日3時間。夕食後は、言語聴覚士からの宿題をこなし、その裏に引き算を書き綴る。毎日疲れ果て、消灯と共に眠りに落ちた。ニュースや大河ドラマ以外は、テレビを点ける間も惜しんだ。朝目覚めると、まず五十音を復唱。診療所には片道40分かけて自転車通勤していたから、ウォーキングは苦にならない。言語の学習は徹底的に取り組もうと思った。1週間経つと、100マス計算の正答率は90%を超えるようになった。
コロナ発症 健康リスクを振り返る
5月16日、雫石町のいわてリハビリテーションセンターに転院した。4日目、急な発熱から、新型コロナウイルス感染症が発覚。岩手医大に舞い戻った。入院後の点滴治療で熱は1日で治まり、感染症病棟の個室で、またもリハビリの日々だ。5日間は病室から出られず、一般病棟に移るまで、室内で1日16kmを歩いた。100マス計算と日本語学習も繰り返した。再度リハビリセンターに戻ると、短期記憶の改善に取り組み、8桁の数字の順唱と逆唱を2時間続けた。その結果、5桁までは簡単にこなせるようになった。
健康リスクについては反省もした。血圧は高めだが、50歳から降圧薬を服用していた。実は地域医療の転進に先立ち、24年2月に全身をくまなくチェックしてもらっていた。MRI検査では、左中大脳動脈に狭窄が判明していた。脳梗塞の所見はなかったので楽観していた。働き方改革といった言葉さえない時代、文字通り粉骨砕身、心臓外科医として働いてきた。「30年のツケが回っていたかな」。発症時の体重は100kg近かった。岩手医大に赴任直後から睡眠時無呼吸症候群もあり、それもリスクファクターだった。
6月半ば、失語症も大きく改善した状態で退院を迎えた。自宅に戻ってもリハビリを継続した。毎日1時間自転車に乗り、1時間水泳に通い、読書と将棋に励んだ。妻との会話もすべてリハビリだ。
職場復帰で患者のメンテナンスに励む
7月1日、2カ月ぶりに診療に復帰した。当初の発語のもどかしさは、患者やスタッフとの会話により少しずつ克服。大病から3年が経ち、穏やかな日常と向き合う日々だ。規則正しい生活に加え、単身赴任で自炊に励み、塩分や量にもこだわって、体重は82kgを維持する。
岩手医大脳神経外科教授(現・学長)の小笠原邦昭に乞われ、24年3月に日本脳卒中学会学術集会で、脳梗塞後の急性期失語症のリハビリの経験談を発表した。その後、岩手県健康国保課でも話す機会を得た。早期リハビリの重要性について得た知見は、包み隠さず共有したいと思う。
震災後の岩手は人口減少が続いている。通勤で自転車を漕ぎながら、海あり山ありの、豊かな陸前高田の風景に心を落ち着かせる。一方、自然が牙をむいた大地震後の光景も決して忘れない。
55歳で市に採用された際、70歳まで働きたいと伝えている。市役所の産業医にもなり、産業保健の関係部署を中心に職員と親交を深め、診療所では2次予防と共に1次予防にも取り組む。日々、高齢者を中心に1日30人の患者と向き合う。
服薬は続けているが、定期的フォローアップではその後悪化もなく、脳血流はむしろ改善されている。病前はとても早口だったが、一呼吸置いて考えながら話すようになったと感じる。
「脳梗塞を起こしたのは事実。高次脳機能障害も消えることはないが、残りの脳機能を生かすのは自分で、そこに光明が見える」。何より重要なのは、運動することと学習すること。パスカルの「人間は考える葦である」を心に刻む。この言葉を、かかりつけ医として、心身のメンテナンスの重要性と共に、患者にも伝え続けたい。そして「明日は今日より良い1日になる」と。(敬称略)
<聞き手・校正>ジャーナリスト:塚嵜 朝子
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