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未来の会

私の海外留学見聞録⑫ 〜為せば成る・阿蘭陀マーストリヒトの日々〜

私の海外留学見聞録⑫ 〜為せば成る・阿蘭陀マーストリヒトの日々〜

関川 浩司(せきかわ•こうじ
社会医療法人財団石心会 
第二川崎幸クリニック 院長 

PERSONAL DATA
留学先:Limburg大学病理学教室(現Maastricht大学病理学教室)留学期間:1986年8月〜87年9月

未知の世界に導かれて

40年近く前、留学を志していた1人の外科医がいた。地方の大学病院に勤務し属していた医局は当時海外医局との繋がりもなく思案に暮れる日が続いていた。そのころ博士号の研究で読んだ多くの英論文の中から海外の研究施設を見つけては手紙を送っていた。20通は書いたであろうか。快い返事が届いたのが2カ所、カナダのオンタリオ州ハミルトンにあるM大学そしてオランダのLimburg大学(現Maastricht大学)であった。日本人に人気の高いカナダを選びその旨を医局に報告し事が進んでいたが、渡航を目前に先方から突然キャンセルの知らせが届いた。このため改めてLimburg大学と連絡を取ることになり、これが今日まで続くオランダと私の繋がりになった。

大腸がんのCell lineを用いCA19-9の研究をしていたオランダLimburg大学病理学教室の助教授Jan Willem Arendsから留学承諾の知らせが届いていたが留学にはオランダ政府奨学生取得が条件であった。このため勤務の合間を縫っては10円玉を握りしめ、病院内にある公衆電話からオランダ大使館にかけbroken Englishで話し情報を集め、オランダ政府教育省が実施する奨学生制度の選抜試験の日を迎えたのである。1次書類選考後の面接はすべて英語、今となっては何を聞かれたか、何を話したか全く覚えていないが面接会場がいやに暗かったというイメージだけが不思議と脳裏に焼き付いている(留学生の会を通して今もオランダ大使館に出入りしており、4年前には日本の医療についてレクチャーする機会もあったが、かつて持った暗いイメージは無論全くなかった)。試験に無事合格し1986年夏、家族4人(子供は3歳と2歳)羽田空港から未知の世界に旅立ったのである。当時はアンカレッジで給油をしてからの長旅であった。スキポール空港からローカル便に乗り換えMaastricht空港に着いたのが夕方、Jan Willemご一家が笑顔で出迎えてくれた。その後ご自宅に直行したが私たち家族4人の長旅の疲れを気遣い屋根裏部屋に用意した簡易ベッドでまずは休めと言ってくれた。その細かい心遣いが日本的でうれしかったのを覚えている。夕食を取りながらの自己紹介も終え、Maastricht駅近くのホテルで1週間ほど滞在し、その後の1カ月は街の中心部に位置するアメリカに留学している同僚のアパートで暮らし、さらには同じくアメリカに1年間留学することになっていた郊外にある同僚の庭付き1軒家で暮らすことになった。
オランダは歴史的に日本と繋がりがあるが留学当時はオランダ人との接点もなく、どんな方々が待っているのか皆目見当もつかなかった。オランダは国土が小さく人口も1400万人程度(当時)のため、彼らは昔から海外に目を向け世界を渡り歩き、そのため幼少期からしっかりと第2外国語を学んでいる。母国語はオランダ語だが多くのオランダ人は日常的に英語を話すことが出来た。彼らは人も良く、外国人を分け隔てなく迎え入れ、そして世話好きでありJan Willemを始め友人となったCees、Peter、Bert、Adrian、Winandその他大勢の友人達は家族ぐるみで私たちの面倒を見てくれた。おかげで異国に暮らしているという感覚はなく早い時期からオランダ人社会に溶け込む事が出来た。もちろん妻は幼子を抱えて大変だったが、幼児教育に力を入れているオランダではナーサリーや学校のシステムがしっかりしており子供たちはそれらに通いながらいつの間にか先生や子供同士オランダ語で会話をしていた。家内もママ友を通じ多くの友人を得ることが出来たおかげで安心して過ごせていたようだ(冬の寒さだけは閉口していたが)。

研究、そしてResearch Grantにも貢献

研究生活では日本で身につけていた細胞培養技術を使ってがんの原発巣と転移巣のBiological Behaviorの違いを探る研究をしたい旨を病理学教室の教授Fred Bosmanに話したところ、この分野で当時世界をリードしていたFidler一派が作成した転移モデルを違う形で作ること、すなわちヌードマウスの盲腸部分に大腸がんのcell lineを移植し肝転移モデルを作りフローサイトメトリーを用いそれぞれの細胞の特徴を調べ生物学的な差異を探ることをテーマにするよう指示された。Bosman教授は週に1度、研究の進捗報告を我々に課し私も例外とはみなされずその時間帯は最も苦痛なひとときでもあった。最初の2カ月間はヌードマウスの世話や細胞培養に従事する日々に加え時間を見つけては図書館にこもり研究に関する論文を読みあさる毎日が続いた。その進捗を逐一報告しなければならず、Koji(私)は何を話しているか全くわからないと、つたない英語力を揶揄され毎回のように冷や汗をかいていた。しかしながらこのスモールグループミーティングのおかげで帰国前には英語力も格段の上達を遂げることが出来た(と本人は思っている)。転移モデルを無事作る事ができヌードマウスから原発巣、転移巣を取り出しブロックそしてセクションを作成し染色、同時に細胞を培養しフローサイトメトリーにかけBrdUを用いS期の割合を測定したりと、一連の作業を同僚の助けを借りながらほぼ1人で行った。何事も分業が当たり前の北米流とは異なり、このように1人ですべての行程を行うというヨーロッパの流儀も私には合っていた。おかげで短い留学期間ではあったが論文も2編作成でき、研究助成金で多くの技術員を雇っている医局の台所事情に少しは貢献できたかなと思っている。またそこで培われたbasic researchを行う上での論理的な考えや物事の進め方などは臨床外科医として治療にあたる際も大いに役立った。Bosman教授はその後WHO classification of tumors(4th edition)のeditorとして、さらに2015年には世界の病理学者100人にも選ばれWorld wideな活躍をしていた。

拓かれた日蘭の絆は今も

私の留学がきっかけとなり当時勤務していた福島県立医科大学第2外科そして同大学第1病理学講座の教室員が交代でオランダに留学するようになったのもうれしい出来事であり、海外医局との繋がりのパイオニアとして医局には多少恩返しが出来たかなと思っている。その留学生の1人で、現在東海大学医学部病理診断学の教授である中村直哉先生が18年秋に主宰した日本臨床細胞学会にFred Bosmanを主賓としてお呼びし、私が彼の滞在中の世話役になったのもいい思い出である。またBosmanやArendsが来日した際には母校で講義をしていただいたりと彼らとの関係は帰国後も続いた。

オランダ人はよく働き、よく遊びOn Offをはっきりさせている。当時研究棟は18時には施錠され(ていたと思う)、その後は立ち入りできないため夕方からプライベートな時間を大いに楽しんだ。特に夏は22時過ぎまで明るく、テニスに興じたりホームパーティーに招かれたり、そして招いたりしていた。中世の面影が色濃く残るMaastrichtの街もよく散歩した。また街に点在する瀟洒な広場に面したパブで同僚たちとよく地ビールを楽しんだ。週末は中古のボルボを駆って周辺の国々にドライブにも出かけた。‘Enjoy your life! On Offを大事に!’ オランダ人が口にしていたこの言葉を私は年老いた今でも大切にしながら日々暮らしている。

異文化に触れ、そこで生活する人々の考えを知り視野を広げることは、その後の人生に多大な影響を与えてくれる。それが留学である。全く未知の世界に飛び込むという無謀な挑戦とも思われた留学生活を支えてくれた多くの先輩、友人、そしてそのような無謀な選択に何も言わずについて来てくれた家族に深く感謝している。

為せば成る 為さねば成らぬ 何事も
成らぬは人の 為さぬなりけり 上杉鷹山

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