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未来の会

第58回「医師が患者になって見えた事」心身の均衡を保ち医師として働き続ける

第58回「医師が患者になって見えた事」心身の均衡を保ち医師として働き続ける

医療法人真生会 真生会富山病院(富山県射水市)
麻酔科医
原田 樹/㊤

 2010年、医学部5年生の夏に線維筋痛症と診断された原田は、鍼灸治療に加えて服薬しながら、闘病を続けていた。

徒手療法が奏功して減薬にも成功

 12月の退院時点で、1日の服薬は50錠近かった。鎮痛薬はオピオイド系も含めて複数、神経障害性疼痛の薬、抗てんかん薬もあった。線維筋痛症の痛みは脳の誤作動によるものと考えられており、神経を遮断するためだ。さらに胃を保護するための胃薬。内科に加えて、心療内科では、痛みに関わる神経伝達物質を調整するセロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬(SNRI)を出された。心療内科の受診を勧められた背景には、投薬以外に心のケアもあったようだ。痛みやそれが周囲に理解されにくいことで、心を病む患者は多く、実際に患者の自殺率は低くない。

 卒業試験や国家試験に向けて勉強に精を出そうと意気込んでいたが、どうにも集中できなかった。線維筋痛症には、脳に霧がかかったような「ブレインフォグ」と呼ばれる症状がある。その頃は、日本語の教科書を読んでも内容がすんなりと頭に入ってこなかった。単語の1つひとつは理解できても、ひとまとまりの意味が伝わってこない。それが病のためなのか、大量服薬の副作用のためなのか判別できなかったが、薬を減らそうと誓った。

 ブログやテレビで発信したことにより、同じ病の患者などからメッセージや情報が寄せられるようになった。翌年3月に東日本大震災が起こったが、東北からの励ましもあった。口内の咬合不全の解消が症状改善につながるといった体験談もあったが、その治療のためには熊本まで行かなくてはならず、断念した。代替医療や品物の売り込みには怪しげなものも混じっており、慎重に見極めなくてはならなかった。「それでも治療法が確立していない中で、西洋医学以外の治療で治っている人がいると知り、心強かった」。

 3月のある日、ブログに新たな治療を紹介したいというメッセージが届いた。送信者は同じ線維筋痛症を患う女性で、原田がかつて臨床研修で教えを受けた指導医の同級生だということだ。指導医は、原田が直前まで受けていたトリガーポイント注射について知らせようと、原田のDVDを女性に送った。しかし、その女性はすでに別の治療を受けて、一時は寝たきりに近い状態から、車を運転できるまでになり、日常生活を取り戻していた。

 原田が医師を目指していると知り、女性は自分の主治医に原田のことを相談した。そして紹介された医師が、もみの木醫院(石川県金沢市)の上田操だった。上田は徒手療法を実践していた。これは、医師や理学療法士などが直接患者の体に触れて行う治療で、関節の動きを改善したり、柔軟性の低い筋肉を伸ばしたりして、こわばっている筋肉をほぐしていく。上田は、原田の痛みの根幹は、幼少期に捻挫した左足をかばうために体のバランスを徐々に崩したためだと診立てた。骨盤や筋肉の歪みを修整すると、体がスムーズに動くことが実感できた。次第に無意識のうちに沈んでいた心も軽くなり、同級生と共に医師になって卒業できる日を思い描いた。

 さらに、卒業後に予定していた結婚の予定を早めて生涯の伴侶を得たことも、心の安定につながった。夫は多忙で全国を飛び回り、関西で暮らしていたが、いつも支えてくれた。

 定期的に徒手療法に通い、鎮痛薬の1つを頓服のように用いて薬を減らしつつ、症状を抑えていた。夏に臨床実習を終えると、友人と3人で卒業試験対策に没頭した。卒業試験をクリアすると、次は2月の国試へのカウントダウンだ。

 待望の医師免許を手に入れると、厚生連高岡病院(富山県高岡市)で初期研修を受けることが決まっていた。県屈指の三次救急病院で、救急科研修にも力を入れていた。もっとも大学病院と違って研修医が少ないため、比較的ゆったりと研修を受けられた。各科のローテーションで2年間もまれながら、原田は、救急医療を専門にしようと決めた。

 線維筋痛症には決定的な治療法がない。医療に思い悩んだ経験が、西洋医学の技術を駆使して目の前の患者に集中できる診療科を選ばせた。例えば、漢方医療や徒手療法は瀕死の病人や怪我人の前では無力に近い。また線維筋痛症を専門に据えれば、治療法の選択で葛藤しなければならないだろうと考えた。

 もう1つ、救急科を選んだ理由がある。体調を維持しながら働けていたが、急性増悪もあり得た。そうした場合に、外来や入院の患者を受け持っていて、勤務に穴を開けることは避けたかった。そこから救急科専門医と麻酔科標榜医の取得を目指し、3年間の後期研修を続けた。

救急から麻酔科に専念し2人の娘を育てる

 一時“薬漬け”になっていた頃は妊娠は諦めていたが、頓服を除き薬と縁を切ることができた。出産経験のある同病の女性も励ましてくれ、主治医の上田も太鼓判を押してくれた。後期研修2年目、15年春に長女が誕生した。出産で骨盤が柔らかくなったことで、むしろ症状は軽快した。2年後には次女も生まれた。同居する両親は、家事や育児を手助けしてくれる。

 医師となって9年目の20年、原田は真生会富山病院に移り、麻酔科に専念することを決断した。病気になっても皆と同じように働きたいという思いは人一倍強かった。しかし30代半ばに差しかかり、患者会では「先生、そんなに重荷を背負わなくて良いよ」とねぎらわれ、肩の荷が降りた。「患者のロールモデルとして、医師として働き続けている姿を見せるだけでも十分に思えた」。

 麻酔科医として、1日2件の手術麻酔や術前診察、回診などを受け持っている。週1回はリハビリテーションの専門病院でも診療をしている。回復期の患者は、重い心と体を抱えてハードなリハビリに向き合っている。少しでも癒やしを与えてリラックスしてもらえればと、アロマの足浴やタッチングケアを看護師たちに指導している。

 線維筋痛症は寛解状態にあり、大きく体調を崩すことはないが、台風が続発した17年秋は、痛みが増幅して体が鉛のように重い日が続いた。今も台風は最大の体調の悪化要因だ。病と向き合う中で、悟ったことがある。「病は、体や心といった自身の環境に加え、自然や社会など、自分を取り巻くすべての環境がバランスを失うと発症する。患者の心やストレスとも向き合いたい」。そのため、公認心理師の資格取得を目指している。

 「今もハンデはあるが、体調が崩れたらきちんと休む。自分に優しくできない人は、本当の意味で人にも優しくできないから」。

 6歳になった娘は、「ママみたいなお医者さんになりたい」と口にするようになった。自分の背中を見せた証として、何よりうれしい。(敬称略)


【聞き手・構成】ジャーナリスト:塚﨑 朝子

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