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未来の会

「医療崩壊」を医療の身近さから考える①

「医療崩壊」を医療の身近さから考える①

 コロナ禍で海外調査とかが全くできなくなってしまった。一方では、ITやオンライン会議、例えばZoomの発達により海外の状況は以前より伝わりやすくなった。であるから、もちろんネットでいろいろ状況を調べて記事を書くことは不可能ではない。しかし、現場を見て調査したいというのが私の考えでもあるので、そこで、今回からは、日本国内での話題について、海外の状況を踏まえた上で、経営学や経済史の視点からエッセイ的に文章を書いてみたい。

 今回からは、日本はベッド数が多いのに、なぜ「医療崩壊、医療崩壊」というのか、またそれと同時に、すでにピークを過ぎたが民間病院についてのバッシングについて考えてみたい。

国際比較から見る医療崩壊

 すでにこの連載でも述べてきたことではあるが、日本の医療レベルは世界的に見て最高水準である。詳細は筆者の著書『日本の医療、くらべてみたら10勝5敗3分けで世界一』 (講談社+α新書)を見て頂きたいが、今回から何回かの連載でのポイントは、日本人にとって医療が非常に身近だということにある。

 ここで言う医療が身近というのは、物理的な意味と金銭的な意味とがある。物理的な意味というのはイギリスや、アメリカのマネジドケアのように原則として患者に対して1人の医師が対応すること。居住圏や加入している保険の種類によってかかりつけ医が決定されるような状況のことをいう。日本でいえば、居住している場所で決められる公立の小中学校に通うような状況である。

 こういった状況がないのが日本の医療制度で、いつでもどこでも好きな時に、専門性が高い病院であろうと診療所であろうと受診することができるのである。こういった国は少ないのだが、この点については既に何回かオンライン診療との関係で述べてきた。そこで、今回からはもう1つのポイント、すなわち金銭的な意味での身近さといったことについてしばらく考えていきたい。

 金銭の具体的な話に入る前に、この身近という点から医療崩壊ということを考えてみると、日本的な意味で「必要な医療をすぐに受けることができる」ことが常態とすると、お金がないために医療機関を受診しない人が多くいるアメリカでは、すでに医療崩壊していると言ってもいいかもしれない。

 最悪の場合の「医療壊滅」とは、昨年4月に米国とかヨーロッパで起きたような状況で、その時は街にコロナ患者があふれ、仮設ベッドが作られたり、 ICU に入室できないために患者が死亡したりしていた。現在の日本は、医

療壊滅レベルでないことは言うまでもないし、医療崩壊もほぼ起こしていないといっていいだろう。ここを押さえて頂いた上で、今回からはお金というものについての医療を受診するためのハードルについて考えていきたい。

お金に対する考え方の変遷

 医療とお金の話の最初は、お金というもののとらえ方について考えてみたい。従来、医療について「お金儲け」的な考えは、タブーであった。また、日本の国民皆保険制度は、患者さんがお金の心配なく医療にアクセスできるという点が世界に誇れる。

 しかしながら、最近では、病院倒産・閉鎖、といった医療提供者側のお金の問題や、患者さんの自己負担増加、といった話題が多く出るようになり、医療とお金が無縁とはとても言いがたい状況になってきてしまった。ここで、少し歴史をさかのぼって、お金あるいはお金を稼ぐ(利益を出す)ことに関する考え方を、経済史の視点から眺めてみよう。

正当な経済活動とそうでないもの

 ギリシアの哲学者であるアリストテレスは、経済的な内容も自らの思弁の中に含めた最初の哲学者であったと言われる。アリストテレスは、現代社会の中で生じうる問題を持ち出すのである。その問題とは、たとえば「価値とは何か」「交換の基礎となるものは何か」「価格とは何か」ということである。

 アリストテレスが経済過程を検討したとき、彼はオイコノミア——つまり、経済学——とクレマティスティケ(金儲けを目的とした交換活動)の2つを区別した。オイコノミアという言葉でアリストテレスが意味していたのは、家政の技術であり、家督の管理であり、資源を注意深く節約する方法であった。

 クレマティスティケのほうは、天然資源や人間の技能を利殖目的のために用いる、という意味である。クレマティスティケは取引を目的とする取引であり、その動機と目標が使用にではなく利益にあるような経済活動である。アリストテレスはオイコノミアを正当なものとして認めたが、クレマティスティケは認めなかったのである。

 貸金業に関しても厳しい。「それが生みだす利得は、自然的になされたものではなく、他の人びとの犠牲においてなされたものである。高利貸の行為はもっとも憎悪すべきものであり、おおいなる理由をもっている。けだしそれは貨幣が機能すべく意図されている過程からではなく、貨幣そのものから利潤を得るからである」(『政治学』)。

 この考え方は、中世になっても引き継がれた。

 中世宗教思想を通じて経済的な行動をとることは、一般的には難しかった。商業に対しては、基本的に警戒した態度がとられていたからである。それは次のような言葉で見事に言い表されていた。「商人はごく稀にしか、あるいはまったくといっていいくらい神の恩恵に浴せない」。

「正当価格」という考え方

 営利動機に対して、教会が持っていたこうした不信感がよくわかるのは「正当価格」という考え方である。

 「正当価格」とは何か。「正当価格」とは商品をその価値通りに売り、それ以上は稼がない、ということである。これは、公定価格につながる考え方である。

 神学者のトマス・アキナスはこう述べている。「罪深きことは、商品をその正当価格以上で売るというはっきりとした目的のために詐欺を働き、そのため自分の隣人を欺き彼に損害を与えることである」。

 しかし、「正当価格」を決める商品の「価値」とは何であるのか。これは極めて算出が難しい。

 1つは、その商品を得るために、あるいは生産するのにかかった費用のことと考えてもいいかもしれない。しかし、ある商人がある製品のために多く費用をかけすぎてしまったとしよう。この時に、彼がそれを転売する時の「正当価格」とはどうなるのであろうか。

 あるいはこう考えてみよう。ある商人が少ししか費用をかけずにある製品を手に入れた。この場合に、彼は儲けてもいいのであろうか。

 医療の場合にはまさにこの問題に直面する。

 日本においては、たとえば薬剤の値段である薬価を定めるときには、過剰な利潤を嫌う。たとえば一定金額以上の売り上げを上げた薬剤には、薬価改定において薬価が引き下げられる。これは、通常の資本主義ではありえないことである。           

 DPCによる包括支払いにおいては、すべての診療において利益が得られるとは限らない。中には感染症などを起こしてしまい、利益が得られない場合もあるであろう。

 一方では、手術がうまくいかなくなって合併症が起きた場合を考えてみよう。この場合でも、日本では病院は医療保険からの収入が得られる。言い換えれば、下手に治療をした場合のほうが収入が多くなる場合があるということになる。

 このように、「正当価格」というのはとても決めにくいものなのである。

まとめ

 このような状況であるので、倫理的な観点から国民すべてが、場合によっては人類すべてが適切な医療を受けられるべきであるという考え方が生まれる。そして、それは間違っていない。しかし、一方で、医療に使うことができるお金は有限でもある。

次回には、資本主義の芽生えから、こういった金銭に関する考え方の変化を見ていきたい。

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