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「日本に細川あり」世界が認めた形成外科医

「日本に細川あり」世界が認めた形成外科医

~形成外科の質の向上と美容医療への警鐘~

細川 亙(ほそかわ・こう)1954年熊本県熊本市生まれ。73年熊本県立熊本高等学校卒。79年大阪大学医学部卒。80年財団法人住友病院形成外科医師。99年大阪大学医学部形成外科初代教授。2012年日本形成外科手術手技学会理事長。15年日本形成外科学会理事長。17年アメリカ形成外科学会名誉会員。日本学術会議連携会員。18年独立行政法人地域医療機能推進機構大阪みなと中央病院長。19年雑誌「形成外科」(克誠堂出版)編集長。20年日本形成外科学会名誉会員。メディカルノート医療アドバイザー。

熊本県出身。1979年大阪大学医学部卒。日本における形成外科の発展期を歩み、今日の形成外科の隆盛の礎を築いた一人。阪大卒後、大阪で最も早く形成外科診療を行っていた住友病院で経験を積み、94年に母校阪大の要請を受け復職。99年、同大学形成外科初代教授に就任。阪大に「形成外科あり」との高い評価を得るまでになる。2018年より現職。病院経営と臨床医という二足の草鞋に止まらず、医療ジャーナル「形成外科」の編集長。医療界におけるオピニオンリーダーとして独自の発想・思想を社会に発信している。

——戦国大名細川忠興の子孫だそうですね。院長室に「関ヶ原合戦図屏風」が飾られています。

細川 屏風の右端の部分に関ケ原合戦での忠興の活躍が描かれています。忠興の長男忠隆の子孫が細川内膳家で明治時代は華族(男爵家)でした。細川隆元氏や細川隆一郎氏は内膳家一門です。細川本家の方は忠興の三男忠利の子孫で、現当主は元総理大臣の細川護熙氏です。なお、忠興は細川藤孝(幽斎)の長男で、忠興の妻は明智光秀の娘(明智玉、細川ガラシャ)ですので、今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の登場人物の多くが私の先祖です。高校までは熊本で育ち、県立熊本高校(クマタカ)を出て大阪大学医学部に入学。医学部在学中に法律に興味を持ち、医学部在籍のまま医学・法学の二足の草鞋で学び司法試験も受験しましたが、もう一歩のところでした。その知識は私の人生に大いに役立っています。

——医局を辞めて外に出て、再び阪大の教授に。ユニークな経歴ですね。

細川 はい。珍しいと思います。新臨床研修制度が定着した今でこそ珍しくないですが、その当時は医局を辞めれば、「医師としてのステップアップ(大学の教官や大病院の部長等になる事)を放棄したんだね、諦めたのね」と言われる時代でした。卒業時の成績は上位でしたので驚かれました。

 実は皮膚科にいた僅かな期間に皮膚外科手技の習得のために週一で通っていた大阪・中之島にある住友病院で形成外科の素晴らしさに出会い、卒業直後に門を叩きました。そこには薄丈夫部長や松本維明先生等優秀な先生方がおられとても魅力的な職場でした。手術件数は年間1200件を超え、薄・松本両先生は形成外科のメッカの東京警察病院で何年間も修業し高い技術を持っておられました。私も徹底的に形成外科医としての教育を受ける事が出来ました。本当に勉強になり充実した時間でした。

大阪大学悲願の形成外科の誕生

——その辺りをもう少し。

細川 住友病院の松本先生が阪大の皮膚科学教室時代に形成外科診療班を作ったのが1980年の事です。皮膚科学講師で形成外科診療班長という立場でした。しかし、その後、住友病院形成外科と阪大皮膚科内形成外科は敵対的な関係になっていきました。また、その後14年間、阪大に形成外科が出来ず、皮膚科内形成外科診療班のままでしたので、皮膚科から独立する事が悲願でした。当時の国立大学では新規の診療科を作るには国会での承認が必要でしたので、松本先生は自分の代で形成外科を独立させる事はもう無理と考えたのでしょう。皮膚科学講師・形成外科診療班長を辞する事を決めて、その後任に私が選ばれ、その人事を皮膚科学教室の吉川邦彦教授が認めました。しかし、阪大と住友病院の微妙な関係もあり、一旦、関西労災病院形成外科に部長として異動し、住友病院色を薄めた上で阪大に着任するという迂回路人事でした。

——阪大の形成外科初代教授になりましたね。

細川 私はずっと阪大形成外科の窮状を憂う気持ちがありましたので、敵対する阪大の形成外科診療班員からの私へのコールも大変有り難い事だと感じて受諾したわけです。そして、前任者が14年かかっても達成出来なかった形成外科独立の申請(新規概算要求)を目指しました。達成に必要な要素は何か熟考しました。結論は阪大の全科的な支援を得る事だと考え、全科に協力を要請しました。着任の翌年から自身で書いた新規概算要求書を出し続け、1998年度国家予算に阪大形成外科新設が組み込まれました。その時は天にも昇る嬉しさでした。翌年2月に形成外科診療科が発足しました。

——形成外科学教室設立後の道程は?

細川 阪大の形成外科独立は東大から40年近く遅れていたので、追い付き追い越せと日本トップの形成外科学教室にするために尽力しました。臨床的には形成外科独自の疾患に特化するのではなく、外科系他科との共同手術を重視する戦略を取り、同時に、教室員には研究と英文論文の執筆を至上命令として課しました。その結果、他科への応援手術件数も急増し、私が退任する頃には年間300件でした。学問的な業績では、2002年には世界で最も権威ある形成外科ジャーナル「Plastic & Reconstructive Surgery」に私が著者(共同執筆を含む)の論文が日本人トップ、世界でも3番目の数が掲載されました。教室員達が日々の研鑽を続けたお陰で、無名だった阪大形成外科は日本の形成外科のトップクラスの評価を頂くまでになりました。私も日本形成外科手術手技学会理事長、日本形成外科学会理事長、第30回日本頭蓋顎顔面外科学会会長、第60回日本形成外科学会会長等、学会の要職を数多く務めさせて頂く立場になりました。

教授定年まで2年を残して退官

——アメリカ形成外科学会の名誉会員になられたそうで、快挙ですね。

細川 私もびっくりしました。アメリカ形成外科学会はほぼ100年の歴史がある学会ですが、僅か7人しか名誉会員はいないのです。既に少なくとも2人は亡くなっているので、生きているのは5人以下です。そのきっかけは16年のアメリカ形成外科学会総会で日本がゲスト国だった事です。私が日本形成外科学会理事長の職にあったので、立場上講演をする事になったのです。私の論文も見ていたのでしょう。「ドクターホソカワの内容のある形成外科学の話を聞きたいので、英語が苦手なら通訳を付ける」との要請が届き、それではと引き受けました。これが私の人生唯一のアメリカ講演です。講演内容を正確に伝えたいと日本語の講演原稿を作り、微妙な医学用語等には一番ふさわしい英語の単語も付記する等して事前に通訳に送付しました。この講演の後に開催されたアメリカ形成外科学会の評議員会で、私は日本人として史上初の名誉会員に推挙されました。名誉会員になる費用は?と訊いてしまいましたが、無料でした(笑)。

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