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がんと向き合う中で突如がんの宣告を受ける

がんと向き合う中で突如がんの宣告を受ける

船戸崇史 (ふなと・たかし)1959年岐阜県生まれ。83年愛知医科大医学部卒業、岐阜大第一外科入局。西美濃厚生病院、羽鳥市民病院、美濃市立美濃病院などを経て、94年開業。西洋医学に東洋医学、補完代替医療を取り入れて診療。看取りも含め在宅医療に力を注ぐ。


医療法人社団崇仁会 
船戸クリニック(岐阜県養老郡養老町)院長
船戸崇史/

 「がんになるつもりは全くなかった」。船戸崇史が35歳で消化器外科医から転じ、がん患者を中心とした在宅ケアクリニックを立ち上げて14年目。左の腎臓に6cmの腫瘍が見つかった。自らもCT画像をのぞき込んだが、頭の中では「がんだとも言い切れない」と診断医の診立てを必死に打ち消していた。

がんを治せないもどかしさにメスを納める決意

 船戸は1959年、岐阜県北西部の山あいの洞戸村(現・関市)に生まれた。父は林業を営み、後に県会議員となった。母方の親戚には医師が多く、勧められるままに受けた私大医学部のうち、愛知医科大学に合格した。手塚治虫の『ブラック・ジャック』への憧れから外科を志願。1983年に卒業すると、岐阜大学第一外科の医局に入った。手先が器用だったこともあり、メスに魅了された。医局人事で病院を転々として修行を積み、大学に戻り博士号を得ることには興味がなかった。

 手術の腕が上達する一方、壁に直面する。進行期が浅く、手術で取り切れたと思った患者の中に再発・転移を起こす人がいた。片や、完全切除は叶わないと考える患者の腫瘍が消えてしまうこともあった。メス捌きの熟達は手術時間を短縮したり出血量を減らしたり、合併症の削減に繋がっても、根治率に寄与する割合は低かった。内科医に尋ねると、生活習慣病などは薬で抑えているだけ、精神科はもっと「治す」実感に乏しいという。

 そこには、いわゆる自然治癒力が働いているようだ。「自分のメスで治しているとは思えず、患者に『安心してください』と自信を持って伝えることを躊躇するようになった」。外科医になって10年目、メスを下ろすと決断した。

 当時、緩和ケアを行う施設は限られ、外科病棟には、再発・転移して戻ってきたものの、根治が望めない患者が常時いた。執刀医が最期の看取りまでするのが慣例で、終末期患者は自宅に帰りたくても、往診してくれる医師は不足していた。船戸は医師になったことでがんに出会い、がん患者と向き合い、患者の家族と対峙するようになり、医師の傲慢さを憂えるようになった。在宅医療や緩和医療という言葉はまだ定着していなかったが、地域で開業し、最期の生活を支えようと考えた。

 眼科医の妻は反対したが、養老町で開業している妻の父が近隣の土地の提供を申し出た。開業を決断後、最後に勤めていた木曽川町立木曽川病院(当時)の内科や整形外科で知識を蓄え、退職後も半年程、他科で研鑽を積み、開院した。

 地域医療にかける意気込みは強かったが、住民達には“よそ者”と見られ、当初来院患者はほとんどいなかった。30代の若い医師ということで、唯一来だしたのが小児患者だった。船戸は子ども好きだったが、注射針を刺さなくてはならないことが大きなストレスとなった。それでも患者が少ないこともあり、じっくり子どもと親に向き合ううち、口コミで小児患者がさらに増えた。しかし、それは緩和ケアを志す自分の望むべき姿ではなかった。

 開業から数カ月で意気消沈した。閉じてしまいたいと思うが、開業に伴う多額の借入金を抱え、職員もおり、休業するわけにもいかない。小学2年生の長男を筆頭に次男、長女と3人の子もいた。外科医に戻るわけにもいかない……八方塞がりで抗うつ薬を処方してもらい、手放せなくなった。

 苦しい船戸は、メンターと慕う人物に助言を求めた。船戸がクリニックの現状についての悩みと苦しい胸の内をぶちまけると、師は「極めて順調だ」と言った。その一言に船戸の怒りがこみ上げた。しかし、師は続けて、「あなたの思い通りでないだけで、予定通り。現実と自分で勝手に作り上げた姿に差があるから、苦しいと感じる」。

 船戸の荒れていた心に、この言葉がストンと響いた。もちろん、在宅医療の夢を諦めたわけではないが、小児科にもこれまで以上に誠心誠意取り組んだ。すると、次第にうまく回転し始め、終末期のがん患者など、在宅医療の依頼が入るようになり、「人生の底」を脱し始めていた。

地域に根差した事業を進める矢先にがん発覚

 三世代同居の家も多い地域で、医療者さえいれば、自宅に居ながら療養できる環境があった。2年、3年と経つうち、周囲の認識も次第に変わり、看取りまでするケースも出て、評判が立つようになった。開業5年目で月1〜2人を看取っていたが、やがて倍々になり、年間50人ほどに増えていた。

 船戸はがん患者を一手に引き受け、それ以外の疾患で在宅療養となった患者は、他の医師が担当した。子どもの成長と共に診療に費やす時間が増えた妻は、漢方外来に力を入れていた。

 2007年までに常勤医師は5人になり、2000年の介護保険が導入された後は、在宅医療の要となる訪問看護ステーションやリハビリテーション施設、デイサービス施設、さらには薬局などを拡充。忙しくも充実した毎日だった。開業14年目、48歳と年男で、さらなる飛躍を期していた。金融機関からの借り入れを進めるにあたり、妻と共に人生初の人間ドックを受けることにした。

 自分は健康だと信じていた。大学時代から続けている合気道は6段、毎週2時間半車を駆って道場で稽古を続けていた。定期的な健康診断では、尿酸値やコレステロール値、血圧などが年相応に上がりつつあったが、異常の域には入ってない。

 名古屋のドックで全ての検査を終えると、妻と2人、診断医の前に座った。シャウカステンに船戸のCT画像を掛けた。「船戸さんも外科医なの?なら、話が早いね」と、左の腎臓に直径6cmの腫瘍があると告げた。「ちょっと大きいRCC(腎細胞がん)だけど、メタ(転移)もないし、取り切れそうです」。ステージは初期の1bという。船戸は信じられなかった。何の自覚症状もなかった。

 がんセンター宛に紹介状を書くという診断医を制して、泌尿器科の専門医に意見をもらいたいからと写真の提供を申し出た。帰宅翌日、同僚の泌尿器科医である金親史尚に、患者の画像だと偽って見せた。金親は即座に「RCCだけど手術できそうだから取ったらいい」と、こともなげに告げた。

 もはや疑いを挟む余地はなかった。船戸の写真であることを告げ、うろたえる金親をよそに、一刻も早く切除しなければという気持ちを募らせた。(敬称略)

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