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未来の会

COVID-19救命へECMO普及に奔走 ~人との繋がりを糧にネットワークの構築を推進~

COVID-19救命へECMO普及に奔走 ~人との繋がりを糧にネットワークの構築を推進~
竹田 晋浩(たけだ•しんひろ)1960年京都府生まれ。86年日本医科大学卒、92年同大学院修了。96年スウェーデンカロリンスカ医科大学留学。2006年日本医科大学付属病院集中治療室准教授。同外科系集中治療科教授、徳島大学医学部救急集中治療医学客員教授等を経て、15年にかわぐち心臓呼吸病院を開設、院長に就任。日本医科大学特任教授を兼任。18年第40回日本呼吸療法医学会学術集会会長。20年有志団体ECMOnetを始め、翌21年NPO法人化し理事長。同年東京理科大学大学院 経営学研究科上席特任教授。受賞歴として、03年東京都医師会医学研究奨励賞、21年未来のいしずえ賞、日本医療研究開発大賞 内閣総理大臣賞、22年カロリンスカ医科大名誉博士号等。その他、日本集中治療医学会評議員、専門医、ECMOプロジェクト委員長。

重い肺炎になった人の命を救うECMO(体外式膜型人工肺)。COVID-19の世界的流行に際し、NPO法人日本ECMOnetは、各地への重症診療支援チーム派遣や講習会の開催の他、ECMOの実施が困難な施設への医療チーム派遣等を行い、国内の救命率向上に貢献した。ECMOnet理事長の竹田晋浩医師は、カロリンスカ医科大名誉博士号の称号を受けた他、日本医療研究開発大賞 内閣総理大臣賞も受賞。国内のCOVID-19対策を充実させるべく取り組んだ竹田医師に、国内のネットワーク構築を進めた経緯等を伺った。

——スウェーデンのカロリンスカ医科大学から、ノーベル賞に次ぐ栄誉とされる名誉博士号の称号を受けられました。

竹田 厳かな式典の中で称号を頂きました。扱いはほぼノーベル賞と同じで、晩餐会パーティーもノーベル賞と同じ会場で行われました。大学の中の立派なレストランで、学長ら大学関係者と王女・王子が参加され、主賓の私は王女の隣りでランチを頂き、緊張しました。ノーベル賞の歴史は約120年。名誉博士号は今年で113年目。殆ど同じ期間続いています。カロリンスカ医科大にはノーベル医学•生理学賞の選考委員会が有ります。2000年前後には、留学の時の上司が選考委員長でした。

——昨年末には、日本医療研究開発大賞の最高賞である内閣総理大臣賞も授与されました。

竹田 医療機器メーカーのテルモと一緒に受賞しました。テルモが開発したECMOを私が実用化、つまり国内でしっかり運営したという事ですね。国内の成績は欧米と比べて十数ポイント高い。ECMOに限らず、集中治療室や救命センターで治療を受けた患者さんは8割近く救命出来ました。これは世界トップクラスです。患者の急増等により諸外国は時間と共に救命率が下がって行ったのですが、日本は救命率が下がりませんでした。

——09年にはH1N1インフルエンザが、その前にはSARS(重症急性呼吸器症候群)が広がりましたが、当時もECMOは活用されたのですか?

竹田 SARSの時は未だ人工呼吸器だけで治療が行われ、ECMOは殆ど使われていませんでした。香港、中国やカナダで8000人前後の患者が出た程度で、カナダはあまりECMOに積極的では無い国でした。H1N1インフルエンザの時は世界中でもの凄い数の患者が出たので、様々な国でECMOが使われました。その時、世界中から先進地であるスウェーデンに学びに行く流れが出来ました。

——そこからECMOを日本に広める取り組みが始まったのですか。

竹田 H1N1インフルエンザの後、日本の治療の問題点を洗い出しました。次の感染症の大拡大が起こった時にどうするのかと思ったのが原点で、治療の内容を変えなければいけないと思いました。特定の施設だけで対応の形を作り、そこで終えてしまっていると感じたからです。極端に言うと私がECMOを日本に広める取り組みを進めた訳ですが、カロリンスカで研究したい研究者は積極的に紹介しました。技術を独り占めせず、国全体を変えて行く必要が有ると考えました。ECMOの能力を広める為、日本呼吸療法医学会の中にECMOプロジェクト委員会を作り、研修等を全国で行って来ました。

——訓練や講習を繰り返していた所に、COVID-19が来たという事ですね。

竹田 正にその通りです。訓練が無かったら今回も大変だったと思います。1000人位治療し、600〜700人位救命出来ました。結果としてはだいぶ良かったかなと思いますね。

——訓練はどのように取り組みましたか。

竹田 チームとして医者が中心となり、呼吸不全、肺が悪い人に対するECMOの使い方を理解する事は大前提です。その上で、看護師、臨床工学技士等の技術的なトレーニングも必要です。患者が日常的には居ないとしても、定期的に練習をしておかないといけません。

——テルモの貢献度が大きいのでしょうか。

竹田 テルモの機械は準備が簡単で、面倒な組み立てが無い。パッケージになっていて、生理食塩水を挿せば自動的に使用可能な状態となります。これはもう本当に楽でしたね。欠点も有りましたが、今はもう改良されて非常に良くなりました。

自由を謳歌する高校時代からカロリンスカ医科大留学へ

——先生は京都府立福知山高校から日本医科大学に進みました。高校時代はどの様な生徒でしたか。

竹田 高校2年の夏迄は部活動に燃えていました。医学部への進学を考え勉強をしなければならなかったのですが、遊びが楽しくなってしまい、帰宅は毎晩0時過ぎ。進路指導では「どこに行きたい?」「医学部」「寝言は寝てから言えよ」なんていうやり取りをした思い出が有りますね。

——カロリンスカ医科大に留学した理由は?

竹田 呼吸器系をやりたかったからです。人工呼吸器のメーカーを通じてカロリンスカ医科大に繋いでもらい、留学の受け入れが決まりました。世界中どこでも同じ様ですが、有名な所ほど受入れは厳しく、知らない人は入れない。日本医科大の知名度も有りました。

——そこでECMOを知った。

竹田 はい。ただ、当時は未熟な肺で生まれて来た等、先天性心疾患を持った子供達が対象でした。肺と心臓の両方で使っていましたが、カロリンスカ医科大は肺が中心でした。当時働いていた先生達が、ノウハウを蓄積して行ったのです。

——ECMOが使用される様になったのはいつ頃からですか。

竹田 1980年代の初めです。その頃は試行錯誤の連続でした。心臓外科の手術に使う「人工心肺」は心臓と肺の代わりをさせ、血液を流して維持します。ECMOはその小型版で、ベッドサイドでも使える装置です。心臓や肺の悪い人に使われる様になりました。当時テルモが開発したECMOはPCPS(経皮的心肺補助装置)で、90年から2000年位にかけて日本はこの機械で心肺蘇生を沢山行いましたが、その治療成績が海外と比べ優れていました。主に心肺蘇生、それから心筋梗塞の患者等、心臓を中心に使う場合と肺を中心に使う場合とに分かれますが、肺への対応は世界的にも90年代に減りました。エビデンスが無いのではないかと言われていたのです。ただ、2009年のH1N1インフルエンザでは、20〜50代位迄の働き盛りが重症化し、そういう方をECMOで治療したら、凄く良い成績が出ました。当時は欧米の限られた施設でのみ活用しており、日本は残念ながら成績が悪かった。カロリンスカ医科大がECMOでとても良い成績だったので、私が技術を学び、日本で広めました。カロリンスカ医科大にも日本からの希望者に研修を受けさせてもらいました。私には留学時代からの人脈が有った為、カロリンスカ医科大が世界中からの研修を断るようになっても、日本だけは受け入れを続けてもらえました。

新病院を設立、50歳からの挑戦

——「かわぐち心臓呼吸器病院」を設立された切っ掛けを教えて下さい。

竹田 1990年代後半に、勤めていた日本医科大病院で新病院建築が始まる事になりました。目標は2006年でしたが、実際の完成は21年。物事の動きが遅い所に嫌気が差しました。もう1つは60〜65歳での定年です。ところが政治家の方々は80歳位でもしっかり活動されている。それを見て、健康ならその位迄医者を出来るかな?と思いました。であれば、自分で好きな様にやれる形を作る、社長になるしかないなと思い、50歳の時に決断。25年間医者をやって来たので、55〜80歳迄もう25年と考えました。25年間一生懸命働きましたが、もう1回これと同じ時間が有るのかと思ったらワクワクしました。

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