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未来の会

第60回 医師が患者になって見えた事 右手を失ったが病の経験で強くなれた

第60回 医師が患者になって見えた事 右手を失ったが病の経験で強くなれた

呉市国民健康保険安浦診療所(広島県呉市)
所長
井上 林太郎/㊦

1961年広島県生まれ。92年広島大学医学部卒業。同循環器内科に入局し、マツダ病院などに勤務。2005年から医療法人社団葵会に移り、2010年から現職。

 ステージⅡBの滑膜肉腫が見つかったのは、働き盛りの42歳。2004年6月、井上は広島県立病院に入院し、右腕の肘の上を切断する手術に臨んだ。術後は、「一刻も早く悪い手を切り離してほしかった」と、むしろ清々した気持ちと安堵に満たされた。そこからが再生の始まりだった。

障害を隠すことなく医療現場に復帰

 主治医で整形外科部長の杉田孝は、「成功した」という事実のみを淡々と告げた。診断がついて予後を尋ねた際も、杉田は「先生が調べられた通りです」と言葉少なだった。井上が医師であることを尊重してくれ、正に“命の恩人”だった。

入院中の井上は、いつも談話室で食事を取っていたが、手術翌日は周りの患者を驚かせるかもしれないとためらっていた。病院の清掃をする女性に、「びっくりした?」と尋ねたところ、「ここでは見慣れているからね」と言われ、吹っ切れた。家族から義手を勧められたが、右手を隠したりせず、ありのまま堂々と生きてこうと思った。

 がんの原発巣を取り除く手術が第1幕で、微小な転移を叩くための化学療法の第2幕が待ち受けていた。7月には、術前と同じくイホスファミド、アドリアマイシン+シクロホスファミドの治療を2クール受けた。

 職場復帰には、リハビリテーションも必要だ。左手で箸を握り、聴診や書字もこなさなくてはならない。身内は何とか手を温存できないかと画策してくれた。しかし、再発を最小限にするという点で、ひと続きの筋肉を切除するという自分の選択が正しかったと確信していた。無意識に両手で物を掴もうとしたり、ピアノを弾こうという錯覚に襲われたりした。四肢を失った者の大半が経験するという「幻肢」だった。もう右手はないのだという現実に落胆しかけたが、すぐ気を取り直した。

 11月に受けたCT、PET検査で、転移がないことが確認された。10カ月に及んだ闘病に終止符を打ち、マツダ病院(広島市)に復職した。循環器内科の最前線で働くのは難しくとも、指示ぐらいは出せるつもりでいた。しかし、急性期病院に自分の居場所はなく、年末で退職した。父が市内の実家で開いた診療所には思い入れがあったが、それを再開する道も閉ざされた。がんになれば、金融機関は融資をしてくれない。きっぱりと諦めた。

 05年の年始から、医局の伝手で医療法人社団葵会に入職。傘下の八本松病院(東広島市)に一般内科医として勤務した。広島市内から1時間弱、“都落ち”は否めない。4月に法人が市内に新たな介護老人保健施設を立ち上げると、施設長兼併設クリニックの院長として赴任した。

 急性期病院と比べれば、物足りなくもあった。それでも、「医師として復帰できたのは恵まれていた。研究職や肉体労働なら同じ仕事に戻れなかった」。医師の仕事を全うしようと思った。

 2つの老健で、ゆったりと日々が過ぎていった。元々手先が器用だったため、左手で何でもこなすことにほぼ習熟した。爪切りなどもできるようになった。自動車には、ステアリンググリップやバックガイドモニターカメラを装着しており、運転にも支障はない。

 新たな生き甲斐も見いだした。手術から2年ほど経つと、自分の経験が誰かのためになるのなら、何か記録を残したいと思うようになった。もし再発して亡くなっても、生きた証になるはずだ。まずは患者会に参加しようと検索し、「特定非営利活動法人がん患者支援ネットワークひろしま」の存在を知った。代表の廣川裕は、学生時代広島大学の放射線科の助教授で、井上を覚えていてくれた。07年3月にニュースレターに書籍紹介の投稿が載り、3カ月ごとに連載として闘病記も掲載してもらえることになった。定期的に執筆することは、心を落ち着かせるのに役立った。廣川の計らいもあり、後に井上もNPOの理事に名を連ね、より親身に活動を続けている。

再発の陰に脅えるも新たな役割を見いだす

 経過観察の画像検査は当初3カ月置きに受けていたが、やがて半年に一度となった。しかし、井上は安心を得たい一心で、当時中国地方で唯一PET-CTを備えていた山口県の病院まで、3カ月ごとに通った。07年6月、衝撃的な検査結果を突きつけられた。肺に転移を疑わせる陰影があるという。初めてがんを告げられたショックを上回り、呆然自失。再発転移は死の宣告に等しいと思えた。もっとも、がん告知で自暴自棄になった反省から、今回は患者の前でなるべく平静を装った。1カ月後に再びCTを撮ったころ陰影は消えており、肺炎の跡ではないかと診断され、事なきを得た。

 10年4月、法人が運営を移管された呉市国民健康保険安浦診療所の所長になった。地域の要の診療所だ。呉市は高齢化率が約35%と高く、高齢の患者が中心だ。外来で午前中40〜50人、午後10〜20人を診るのに加え、訪問診療にも出向く。インフルエンザや新型コロナウイルスのワクチン接種が始まる日は、早朝から入り口の前に行列ができる。「頼りにされていると実感できる」。

 X線撮影の補助や注射は、看護師が担当してくれる。超音波検査や内視鏡検査は自分できないため、連携先の病院に患者を送る。重大な病変を見逃してはならないので、“空振り”は覚悟の上だ。がんらしいと診断した時は、「がんかもしれんね」「悪いものの可能性があるね」と、穏やかに患者に伝える。かつて自分が、医療者の何気ない言葉に傷ついた経験が生きている。

 コロナ禍真っ最中だが、20年12月に地元の安浦中学校で、「がん教育」の講義を初めて行った。40人ほどの生徒を前に、がんになった体験談を時々の思いを交えて語った。井上は生来の吃音があり、当初は依頼に尻込みしていたが、ゆっくりと教壇で言葉を紡いだ。帰宅して写真を見ると、生徒たちの真剣な面持ちに身が引き締まった。感想文には、涙を誘われるものもあった。年1回の新しい役割を大切にしようと誓った。

 病を得て18年が経つ。一般にがんは5年間何もなければ完治とされるが、軟部腫瘍の場合は10年と言われる。今も定期的な画像検査は受けているが、幸い再発の予兆はなく、節目となる還暦の年も越えることができた。

 実は、妻とは離婚して家族とは別の道を歩んでいる。共に医学部に進んだ2人の子どもたちとは交流を続けており、成長を見守るのも楽しみだ。医師としては、事前指示書の普及や子宮頸がんワクチンの啓発など、井上ならではのミッションがある。自分なりの死生学も究めたい。

「Aus der Kriegsschule des Lebens.—Was mich nicht umbringt, macht mich stärker.(死をもたらすものでなければ、何であれ私を強くする)」——ニーチェの箴言を生きる礎としている。(敬称略)


【聞き手・構成】ジャーナリスト:塚﨑 朝子

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