
何故今、医師が「起業」を意識し始めたのか
診療室を離れ、ビジネスの世界へ足を踏み出す医師が増えている。厚生労働省の統計によれば、2022年時点の三師届(医師・歯科医師・薬剤師の届出)で、病院・診療所以外に従事する「その他」区分の医師は約3万人、10年前の約1.5倍に膨らんだ。この背景には、医療界を取り巻く環境の構造的な変化が有る。
「やっても報われにくい」現実
24年4月に始まった医師の働き方改革は、現場に大きな衝撃をもたらした。年間時間外労働の上限が原則960時間に設定され、これ迄当然とされてきた長時間労働に歯止めが掛かった。一見すると労働環境の改善だが、裏を返せば、自己研鑽の時間や症例経験を積む機会の減少を意味する。取り分け若手医師にとって、専門医取得や技術習得のペースが鈍化する懸念は現実のものとなっている。
同時に、診療報酬の実質的な目減りも医師達の意識を変えた。24年度の診療報酬改定では、本体部分の引き上げは僅か0.88%に留まり、物価上昇を考慮すれば実質マイナスだ。勤務医の給与は頭打ちとなり、開業医も材料費や人件費の高騰で経営環境は厳しさを増している。25年の医療法人の倒産件数は、66件で過去最多を更新した。臨床の頑張りだけでは埋まらない溝が広がっている。
更に、キャリアの先行き不透明感が医師達を不安にさせている。AI診断支援システムの精度向上、オンライン診療の普及、医療のコモディティ化。こうした変化は「医師という資格さえあれば一生安泰」という神話を揺るがしていると同時に、診療の外に活路を求める動機となっている。象徴的なのは、東京大学理科三類卒業者の動向だ。日本最難関とされるこの入学枠は、ほぼ全員が医学部に進学する。ところが近年、卒業後に医師免許を取得しながら臨床に進まない、或いは数年で医療現場を離れる者が約4割に達しているという。最高峰の医学教育を受けた人材が、医師としてのキャリアを選ばない——この現実が、医師という職業の相対的地位の変化を如実に物語っていると同時に、国として大きな損失だ。
起業する医師達のリアルな動機とビジネスモデル
医師達はどの様なビジネスを手掛けているのか。最も目立つのは美容医療分野だ。矢野経済研究所によれば、23年の美容医療市場は5940億円と推計され、前年比108.8%で伸長した。保険診療の枠外で価格設定が可能なこの領域は、ビジネスマインドを持つ医師にとって魅力的だ。都内で美容クリニックを経営する元形成外科医は「保険診療では1時間の手術で数万円の報酬だったが、美容では桁が違う」と本音を明かす。
ヘルステック領域も医師起業家の主戦場となっている。オンライン診療プラットフォーム、AI問診システム、医療データ解析サービス。医療現場の課題を知る医師だからこそ、実効性の有るソリューションを提案出来る。最近は、医師が創業したヘルステック企業に数百億円規模の資金が流入する案件も相次いでいる。投資家も、医療の専門知識とビジネス感覚を兼ね備えた医師の起業家を高く評価している。
一方、起業とは異なる形で医療の外へ出る医師も増えている。外資系コンサルティングファームへの転身だ。マッキンゼー、BCG、ベイン&カンパニーといった戦略系ファームは、医療・ヘルスケア分野のプロジェクトを拡大しており、臨床経験の有る医師を積極的に採用している。製薬企業の戦略立案、病院経営の改革支援、医療政策への提言。こうした領域で、医師としての知見とビジネススキルを融合させるキャリアは、高年収と知的刺激の両方を約束する。
より手軽な起業形態として注目されるのが情報発信ビジネスだ。YouTubeやSNSで医療情報を発信し、広告収入や有料コンテンツで収益を得る医師が急増している。登録者数10万人を超える医師YouTuberも珍しくなくなった。更に、健康食品や化粧品の「医師監修」として名前を貸すビジネスも広がりを見せる。監修料は案件により数十万から数百万円。診療の合間に原稿をチェックするだけで副収入が得られるとあって、手を出す医師は後を絶たない。
彼等の動機は必ずしも金銭だけではない。「保険診療の制約から解放されたい」「自分の理想とする医療を実現したい」「医師の知識を社会に還元したい」。こうした前向きな理由を語る起業家も多い。とは言え、実際には収入増への期待が最大の動機である事は、誰もが認めるところだ。
白衣を脱ぐ決断の裏側に有るリスクと葛藤
しかし、起業という選択は光と影を伴う。最大のリスクは収入の不安定さだ。勤務医であれば月々安定した給与が保証されるが、事業収入は浮き沈みが激しい。医療系ベンチャーで早期に資金繰り・薬事等の壁に直面し撤退するケースは少なくない。外資系コンサルに転じた医師の中にも、成果主義の厳しさに直面し、数年で医療現場に戻る者も少なくない。
専門性の喪失も深刻な問題だ。診療から離れれば、医療技術は確実に鈍る。特に外科系の医師にとって、手術の腕は日々のトレーニングがあればこそ維持される。にも拘らず一度ビジネスの世界に飛び込めば、臨床への復帰は想像以上に困難なものとなる。最新の治療法、新薬の知識、医療機器の進歩。数年のブランクは取り戻せない程の差を生む。
加えて、医療の世界を出た医師が直面するのが、立場の変化による戸惑いだ。病院では医師は絶対的なリーダーであり、看護師や技師、事務職員も医師の指示に従って動く。医師を中心に物事が進むのが当然の環境だ。ところがビジネスの世界では、医師免許は直ちに優位性を与えるものではない。医療界の常識は一般社会では通用せず、上下関係を前提とした指示的なコミュニケーション、ビジネスマナーの欠如といった、「一般社会の常識」を一から学び直す必要が有り、その過程で挫折する医師も多い。
更に根深いのが、アイデンティティの揺らぎだ。医師は社会的に尊敬される職業であり、人を救うという明確な使命が有る。それを手放してビジネスに専念する事への後ろめたさは、医師の起業家の多くが抱える葛藤だ。「医師免許を持ちながら診療しないのは社会的な損失では」といった自問自答は、成功した後でさえ完全には消えない。
「医師×起業」は逃げか、進化か
この流れを、どう評価すべきか。肯定的に見れば、医療の専門知識が社会の様々な領域で活用される事は、イノベーションを生む。予防医療の啓発、健康リテラシーの向上、医療アクセスの改善。これらは医師起業家が貢献出来る分野だ。又、硬直化した医療システムの外で自由に活動する事で、新たな医療サービスのあり方を提示する可能性も有る。
一方で、冷静に見つめるべき現実も有る。高度専門職の人材が、本来最も価値を発揮出来る筈の診療現場から流出している現実は、医療提供体制の脆弱化に繋がる。事実、地方や不採算部門では、慢性的な医師不足が深刻化している。医師達が収益性の高いビジネスや外資系コンサルに流れる一方で、救急医療や産科、小児科といった、社会的に必要だが経済的に報われ難い領域は、益々人材確保が困難になる。
そして皮肉な事に、医師の起業ブームは、その職業的価値が相対的に低下している事の証左でもある。嘗て医師は、経済的にも社会的にも揺るぎない地位を誇っていた。しかし今、その地位は医師自身が疑問視する程に不安定化している。診療報酬の抑制、労働環境の悪化、将来への不透明感。これらが医師達を診療室の外へと駆り立てているのだとすれば、問題の本質は起業する側ではなく、医師を起業へと向かわせる医療システムの歪みにあると言う他無い。
結局のところ、「医師×起業」という現象は、日本の医療が抱える構造的矛盾の1つの表出に過ぎない。医師達が白衣を脱ぎ、ビジネススーツに着替える姿を、我々は進化と呼ぶべきか、それとも逃避と呼ぶべきか。その答えは、彼らが去った後の診療現場に残された空席の数が、やがて明らかにするだろう。医師という職業を魅力が無いものにしたのは、誰なのだろうか。



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