
森内 浩幸 (もりうち・ひろゆき)
長崎大学高度感染症研究センター センター長
留学先: 米国立アレルギー・感染症研究所(NIAID)(1990年12月〜99年1月)
私の米国留学は四半世紀以上前です。加えて、私の経験はかなり特異なので、間違ってもこれから留学を志す若い人が参考にしないよう釘を何本か刺しておきます。
私は研究には興味がなく、将来は発展途上国の子供のために働きたいと卒業前に国際協力事業団(現国際協力機構)のオフィスをアポなしで訪れたら、「悪かことは言わんけん、まずどこかに入局して研修までは済ませんね」と長崎弁で去なされ、母校の長崎大学病院小児科に入局。その後、世界保健機関(WHO)で活躍中の方を学会のフロアで捕まえ、どうすればWHOに勤務できるか質問したら、「若い時の思い出作りだったらいつでも何とかなる。でも一生の仕事にしたいなら大学教授になる程度の研究実績を上げなさい」と諭され、初めて研究の道を意識しました。
そこで私が叩いた扉は大学院の研究室ではなく、現在の国立病院機構仙台医療センター・ウイルスセンターでした。そこはWHOの調査協力センターでもあり、発展途上国の現場でも役立つ研究を行っていたからです。当時のセンター長の沼崎義夫先生に厳しく指導され、ど素人の私が何本か英語論文を出す事ができました。
次いで研究留学を目指し何十通もの航空便を送りましたが、前向きの返事は2カ所のみ。うち「いつでもOK」と返事をくれた米国立アレルギー・感染症研究所(NIAID)のSteve Straus先生(以下、ボスと呼ぶ)の研究室に飛び込みました。
行ってみたら波乱万丈。ボスとの2連戦
行って分かったのは、ボスは「細胞の扱いに慣れていて、面倒な仕事も文句を言わずやってくれる、後ろ盾のない日本人が欲しかった」だけでした。まさに私は的中だったのです。一生懸命やっても共著者にしかなれないプロジェクトをやらされ、嫌なら帰れという酷い扱いでした(若者への教訓:ボス同士が仲良しのラボに留学すべし!)。
ある日、そんなボスが動揺する出来事が勃発。ボスは水痘帯状疱疹ウイルスの研究者でしたが、ある国際会議で大阪大学の故高橋理明教授がボスの所に歩み寄り、「あんたんとこに森内って来とるやろ? 彼のことやからよう頑張っとるやろなあ。よろしゅう言うとって(大阪弁がどう訳されたかは不明)」と声を掛けたそうです。高橋教授は世界で初めて水痘ワクチンを開発したレジェンド。その彼が「わざわざうちのHiroのことで声を掛けて来た! 後ろ盾はいないはずだったのに!」。なお、私は高橋教授とは特別な間柄ではありません。学会で積極的に質問していたので、顔や名前を覚えてくださったようです(若者への教訓:学会での積極的な姿勢は偉い人の記憶に残る!)。
さて私も自分が第一著者にならない仕事のために渡米した訳ではないので、水面下で動きました。与えられた課題(上司が作成していた各種変異ウイルスの増殖を支持するcell lineの作成)はちゃんと行う一方で、そのcell lineを用い予算を使わずにできる(使えばバレる)別の実験計画を立て、十分なデータを集め、かつ予想質問への準備を整えた上で、ラボ・ミーティングで突然爆弾投下! 質問の連射攻撃に耐えた後、一瞬の沈黙の後でボスは「続けろ」と認めました。

ボスとの確執は続きました。私がいた所には世界最大規模の臨床研究施設である米国立衛生研究所の臨床センター(CC)が併設されており、フェローの多くは、感染症専門医プログラムの一環として臨床と研究の両方を行っていました。彼らが参加していた週1回の臨床カンファレンスは非常に有意義だったので私も参加していましたが、ある日ボスは私を呼び出し「お前をここに呼んだのは実験させるためで、臨床の勉強のためじゃない。そもそも海外からこの臨床と研究の両方を行うプログラムに参加しているのは、このオックスフォード卒の医師みたいにECFMGで高得点を取った人間だけだ。お前に参加資格はない! 二度と臨床カンファには出るな!」と言い渡されました。
私は同僚の1.5倍以上働いていたし、私以外の海外フェローも参加していたので相当頭に来ました。そもそもECFMGって何なのかと調べたら、海外の医学部卒業生が米国の医学部卒業生と同等だと見做すための試験だと分かり、「よし、正攻法で戦おう」と決意。臨床医学と基礎医学の全般、それに英語。必死で時間を作って勉強し、目標を超える成績で合格。その通知をポケットに入れてカンファにしれっと参加。案の定、ボスは私を睨みつけカンファ後に部屋に呼び出し怒鳴りました。しかし私は目の前にECFMGの成績表、さらにボスの競争相手の教授との書簡のやり取りも突き出し、「もしここで臨床させないなら、こっちに移る」と宣言。すると、「来年度からは臨床もできるプログラムに移行していい」とあっさり決着(若者への教訓:怒りのエネルギーは正しく発散しよう!)。
さて、ボスとはそんなこんなで喧嘩に明け暮れたと思われそうですが、日本との大きな違いは、喧嘩しても結果を出すなら認められる、案外その後は仲良くなれることです。実際ボスとは家族ぐるみで長く親しく付き合いました。残念ながら、彼は脳腫瘍のため早すぎる人生を終えました。
Fauci所長の下で充実した研究(若干臨床)生活
このボスのラボでの研究生活に区切りをつけ、臨床だけの1年間を過ごした後、NIAID所長を38年間務めたAnthony S. Fauci先生のラボに移籍しました。先生は高名なHIV/AIDS研究者で、COVID-19パンデミックの際にはタスクフォースの中心人物として活躍しました。私が臨床医としてCCで勤務していた際、先生は研究所長や米国主席医療顧問として国内外を飛び回り、超多忙の身なのにエイズ病棟の回診を欠かさず行い、1人1人の顔や名前を覚えて声を掛け、敵対視された患者団体とも対話を続け、最終的に友好関係を樹立しました。主任研究員に成り立ての私とも毎週1時間は直接意見交換してくれ、私の中では、スーパーマンに最も近い人物でした。
ちなみに、私が知る限り、先生の下で働いた日本人は私と妻だけです。私が先生のラボに移りたいと申請した時、私の最初のボスを呼び出して「Steve、君の所にいたフェローが私の所に来たいそうだが、私は日本人を基本採用しない。日本人の多くは優秀だが、上の人間に忖度する。私は『No』と言える相手じゃないと、一緒に仕事したくない。彼はどうなんだ」と訊いたそうです。すると「Tony、心配ない。Hiroは間違いなく上司にNoが言える奴だ」と太鼓判(?)を押した事が決め手になりました。
先生の下で充実した研究・臨床生活を送り、発展途上国の子供のための職を得るためもうひと頑張りと思っていた矢先、ここには書けない諸々の事情もあって帰国し、母校小児科の教授になりました。
部下が上司に何度も喧嘩を売る、上司は自分にNoを突きつけられる人間を部下に選ぶ——私が経験した人間関係は非日本的であり、そこにある意味適応できた(元々その素地が十分あった?)私の経験は、これから留学を目指す日本人には役に立たないどころか有害ですらあるでしょう。良い子は決して真似しないよう願います。
最後に、私が米国で喧嘩を売りながらも研究実績を挙げ、臨床でも貴重な経験をし、素晴らしい人たちに師事出来たのは、公私両面のパートナー森内昌子のお陰です。彼女への感謝を込めて筆を置きます。




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