
実質1%以上を賃金ノルム、厳しい中小企業に政策支援を
物価上昇が止まらない現在、生活を守る為には所得の底上げが急務だ。企業業績の持ち直しも相俟って、2026年は3年連続で5%台の賃上げが視野に入る。だが、これにより人件費が上昇すると、企業収益を圧迫するのも事実。これらを踏まえ、賃上げが実質所得の回復と需要の下支えに繋がるのか、それともコスト増を通じて投資や雇用を抑制するのかを探ってみたい。
連合が実質的な賃金の上昇実現に対し強い意欲示す
給料の上げ幅を占う指標は、国内最大の労働組織である日本労働組合総連合会(連合)の動きだ。連合は25年11月20日の第2回中央執行委員会で「2026春季生活闘争方針(案)」を決定。全ての働く人の生活を持続的に引き上げるマクロ視点と、各産業での「底上げ・底支え・格差是正」を強化する方針を掲げ、賃上げの目安を賃上げ分3%以上、これに定期昇給相当分(賃金カーブ維持分)を加えた総額5%超とし、その実現に拘るという。
賃上げ目標を5%としたのは3年連続。額面通り受け止めれば、長らく賃金が上がらなかった数年前迄と比較して、勤労者にとって朗報と言える。だが実感はどうか。物価高騰が収まらず、賃金の伸びが物価上昇に追い付いていない局面では、名目の賃上げが有っても実質的な生活水準は上がらない。寧ろ、物価上昇が賃上げを上回れば家計は苦しくなる。
この点については連合も強く認識している。生活向上を実感する層は少数で、消費性向はコロナ禍前を尚下回る——方針案はこう問題提起した上で、「実質賃金を1%上昇軌道に乗せ、これからの『賃上げノルム』としていくことが、国民経済の安定と経済の好循環を実現するカギ」と明記した。ここで言う「ノルム」とは経済学で「規範・標準」を意味し、社会全体で共有すべき水準や慣行を指す。言い換えれば、物価変動を差し引いた後でも毎年1%ずつ実質賃金を高める事を“当たり前”にするという宣言である。これは、年金や契約金額を物価に合わせて機械的に増減させる物価スライドとは異なり、家計の手取りが本当に増える状態を継続的に実現するという意思表明に他ならない。
物価上昇を加味すると賃金が目減りしている現況
25年春闘をおさらいすると、平均賃上げ率は5・25%で34年振りの高水準となった。年齢に応じて自動的に伸びる定期昇給を除き、基本給を引き上げるベースアップ(ベア)は3%超。一方、24年の消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)の上昇率は年平均で前年比2・5%であり、統計上は名目賃金の伸びが物価をやや上回った格好である(近年の物価上昇では除外される事の多い食料品の負担感が大きい点は、別途考慮が必要)。
この数値を企業収益から妥当性を点検すると、東証の集計では東証上場3513社(全産業、24年度)の当期純利益は前年度比5・28%増。3月期決算企業(2048社)に限れば同5・81%増で、賃上げ水準と概ね整合は取れている。配当は全体11・78%増、3月期12・54%増と伸びが目立つが、日本の配当は市場改革前、国際水準に比べ著しく低位であった経緯が有り、是正過程と見るのが妥当である。以上を勘案すれば、25年春闘の賃上げは常識的な水準と言える。
反面、家計の実感は乏しい。食料・エネルギー価格の上昇が家計を圧迫し、賃上げを実感へ繋ぐ鍵は「物価の鎮静」と「ベアの持続」に尽きる。厚生労働省の毎月勤労統計(24年度)では、実質賃金は前年度比0・5%減(3年連続マイナス)、他方で名目賃金(現金給与総額)は3・0%増(4年連続プラス)となっており、手取りは増えても物価上昇に追い付いていないのが現状である。
だからこそ、連合が賃上げの「ノルム」を強調した意義は大きい。26年3月期も企業全体では好決算が見込まれるが、家計が景気を実感するには実質賃金を持続的に押し上げる規範作りが要る。今回の方向性を実装に移す重要性はそこに在る。
ノルム定着の条件と人手不足の現実
但し、ノルム追求の仕方次第では企業業績を圧迫し得る。賃上げは人件費というコストの増加を伴う。試算では24年度の総人件費は平均4・32%増となっている。同時に原材料・エネルギー価格等、仕入れコストの高止まりも続き、利益を圧迫する要因は重層化している。従って、価格転嫁・生産性向上・業務再設計をセットで進め、賃上げを“持続可能なコスト”へと転化出来るかが、ノルム定着の成否を分ける。
しかし、企業は以前とは異なり、人件費を抑える事は出来ない──というより、抑えてしまったら事業が成り立たなくなるリスクが生じてしまう。その大きな理由は人手不足。少子高齢化によって急速に労働力が減少し、学生の就活戦線ならずとも、労働需給は売り手市場だ。勿論、業種によって状況は異なるが、安い賃金、給料では人が来ないという厳しい現実がある。
帝国データバンクが25年1月に行った調査によると、賃上げの理由で最も多いのは、人手不足等による労働力の定着・確保で、4社に3社がこれを挙げ、約半数が挙げた物価上昇を大幅に上回った。現時点では、連合が掲げた1%実質アップという賃上げノルムが、絵に描いた餅で終わる可能性は低いと言えそうだ。
直近1〜2年で初任給の引き上げを含む賃上げに踏み切る企業は数多い。尤も、「この流れは続くのか」という疑問は残る。持続性のカギは一過性の対応で終わらせず、制度として組み込めるかに尽きる。
実際、長期で賃上げを継続する企業も在る。例えばニトリホールディングスは、総合職のベースアップを21年連続で実施し、更にパート・アルバイトの時給引き上げも11年連続で続けてきた。つまり、継続は「やる気」の問題ではなく、原資確保(価格転嫁・生産性向上)と運用設計(評価・処遇の一体見直し)を整える意思と仕組みの問題である。
何れにせよ、これからの焦点は名目賃金の上昇を持続させるだけでなく、実質賃金のプラスを定着させる事。物価の動向を踏まえつつ、賃上げを常態化出来る企業基盤を作れるかが問われる。
雇用確保・維持の為に賃上げ必須の状況が続く
この様に、賃金改定に対する企業の考え方は、業績重視から雇用の確保・維持へと重心が移っている。深刻な人手不足を背景に、今後は賃上げが労働者にとって優位に進む公算が大きい。だが他方では課題は明確だ。最も注意すべきは企業間格差である。
連合も構造的な偏りを認識している。連合加入は全労働者の約5%に留まり、その多くが大企業の組合員である為、実態の把握には限界が有る。そこで連合は組合員数300人未満を中小企業として賃上げ率を別掲しているが、25年春闘の全体に於ける中小の賃上げ率は4・65%に留まった。零細まで含めれば、実勢は更に低い可能性が高い。
実際、中小・零細企業の人件費アップは経営環境を悪化させる大きな要因になっている。東京商工リサーチの調査によると、「人手不足」が一因となった倒産は25年1〜8月の累計で237件(前年同期比21・5%増)となり、24年1年間の292件を上回りそうな勢いだという。更に8月は、「人件費高騰」を理由にしたものが前年同月の2・7倍に急増。こうした統計を見る限り、企業に賃上げ疲れの兆候が現れている様だ。この状態は、大企業、中小企業を問わない。例え好業績企業、成長企業であっても、賃金が同業他社に劣れば、人材は他に流れてしまう。人件費増は着実に収益を圧迫するが、それを止めてしまう訳にはいかず、賃上げが経営にとって「諸刃の剣」になっている。
連合が強調する賃金ノルムは進展するだろうが、物価上昇の要因となる事も忘れてはならない。それが更なる賃金上昇に繋がるといった、経済の好循環に繋がればいい。しかし、賃上げを優先せざるを得ない環境下で、中小企業の中には苦境に陥る所も少なくないと見られる。安定した収益確保に取り組ませ、全体に賃上げの果実が行き渡る様、資金面での支援等、政策対応が重要になりそうだ。


LEAVE A REPLY