
土屋 晴生 (つちや・はるお)
特定医療法人扇翔会 南ヶ丘病院 内科部長
留学先: ジョンズ・ホプキンス大学(1997年1月〜2002年3月)
1997年1月、米国のJohns Hopkins University(JHU)のPardoll先生の研究室に留学しました。
留学前は金沢大学第3内科大学院で造血幹細胞移植のグループに入り、その後、癌研究会癌研究所(現がん研究会がん研究所)で発がんの機構についての研究を行っていました。そうした中、がんの治療手段として分子生物学的手法を用いた免疫治療の開発に携わりたいという思いが強まり、米国へと渡ったのです。
JHUは当時から遺伝子組み換え技術を用いたがんワクチン原型の開発で知られ、多くの研究室が集結して免疫療法の研究を行っていました。研究室が個別に活動するのではなく、大学として免疫療法の研究教室を集約させることで、組織的な研究体制が形成されていたのです。Pardoll先生はまだ若く、研究室には日本からの留学生も在籍していませんでした。
樹状細胞研究と遺伝子配列公開
渡米翌年の98年、樹状細胞が免疫反応を強く活性化できることから、私は特異的なcDNAクローニングを通じ免疫反応を制御する新しい遺伝子の探索を開始しました。その中で見つかった1つの遺伝子が、Butyrophilin(ブチロフィリン)というタンパク質と高い相同性を持つことが分かりました。ブチロフィリンは乳汁中に多く含まれる分子ですが、実は免疫制御に関わるB7ファミリーの一員であることが知られていました。
これに気づいた瞬間、免疫応答の新しい扉を開けられるかもしれないという手応えを感じました。ところが、研究室ではPardoll先生は論文作成や必要な実験の実施にかなり消極的でした。当時はその理由が理解できなかったのですが、せっかく重要だと思われる分子を見つけたのに、放置同然の状態が続いたのです。
そこで、我々は思い切って、全長遺伝子配列をGenBank(ジェンバンク)に登録・公開することにしました(99年に公開)。遺伝子配列は通常、論文との同時公開が一般的で、先に公開することはライバルに先手を取られるリスクを伴います。しかし、当時の私は実験が進まない状況に焦り、「とにかく世界に存在を示さなければ」という気持ちが先行したのです。登録に際し、我々はこの遺伝子を「Btdc」と命名しました。
今振り返るとこの公開は重要な意味を持っていたものの、当時は誰もその価値に気づかず、「早まったのではないか」との声すらありました。しかし、この一歩が特許競争の行方を左右することになるのです。
研究姿勢の差に衝撃を受ける
99年、メイヨー・クリニックが同じく免疫を制御するB7ファミリーのB7-H1を論文として発表しました。我々が見つけたBtdcと非常に高い相同性を持つことが分かり、研究室は騒然としました。この時、Pardoll先生が最初に動いたのは「論文執筆」ではなく「特許申請」でした。特許は公開から一定期間が過ぎると無効になるため、猶予はありません。すぐに大学の特許弁護士との相談が開始され、私は「研究とはここまで産業と直結しているのか」と衝撃を受けました。以前、ブチロフィリンに関する論文作成や実験実施に先生が積極的でなかった理由の謎が解けたのです。
特許出願後、大学から届いたメッセージは印象的でした。——“Advertise your patent!(特許を宣伝せよ)”。論文や学会で広く発表し、特許の存在を周知させることが、知的財産を守るための「戦略」でした。学問の成果がすぐに「武器」となる、これが米国の研究文化でした。
我々はBtdcを「B7-DC」と改名し、論文投稿にこぎつけました。しかし、同時にハーバード大学と京都大学のグループがPD-1蛋白質にある2つのリガンド(PD-L1とPD-L2)を同定し、Nature Immunology誌に投稿していたため、不採択となりました。彼らは免疫抑制分子としての報告、我々は免疫活性化分子としての報告で、全く逆だったのです。
その後、別の雑誌への投稿過程で追加実験が必要となりましたが、京大から試料の提供を受け、さらに千葉大学の日本人研究者の尽力によって、ついに論文発表に至りました。この経験はライバルであっても研究の前進のためには協力するという、科学の国際性を強く感じた瞬間でもありました。これらの分子は、のちに「免疫チェックポイント分子」と名付けられました。
実際には、我々が登録したマウスのBtdc配列は99年6月1日にジェンバンクで公開されており、B7-H1の配列公開はその半年後でした。2001年にハーバードと京大のグループが発表した論文においても、我々のジェンバンク登録が引用されていました。結果的に「世界で最初に全長配列を公開したのはJHUである」という事実が特許成立の決定打となりました。
ただし、B7-DCに基づく創薬は思ったほど成果が表れませんでした。発見がすぐに医薬品開発に直結するとは限らないことも、この時痛感したのです。一方で、京大で開発された抗PD-1抗体の臨床試験はJHUのグループによって行われ、12年にNEJM誌で発表されました。これを契機に免疫チェックポイント阻害薬は一気に世界中で臨床応用され、がん治療に革命をもたらしました。
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研究はただの学問ではなく、社会のために行う
冒頭で述べたように、米国の大学の強みはなんといっても組織化された研究体制でしょう。大きな目標のもと、様々なアイデアを持つ人々が集まり実証していく体制は、経済的な裏打ちがなければできません。また、個人の努力のみならず、組織全体で開発を進める方法は、科学技術に対する国家としての戦略がなければ不可能です。日米の科学技術に対する方向性の違い、経済力の差は歴然でした。
さらに米国では、1990年代には大学がすでに知的財産の価値を理解し、法的な知識だけではなく、科学的知識を持った特許弁護士が常駐して研究者を指導していました。研究者は論文作成と同時に、特許をいかに守り、ライセンス化して産業界につなげるかを意識していました。対して当時の日本では、研究者が「発見」や「論文発表」を最終目標とする傾向が強く、特許戦略への意識は十分ではありませんでした。こうした違いが、その後の創薬分野における日米の差につながったと感じています。
こうした一連の経験は、研究を単なる「学問」ではなく「社会的な営み」として捉える大きな契機となりました。誰のために研究をするのか、大学や企業、国家は研究に何を求めているのか。私は自分自身に何度も問いかけることになりました。
一緒に研究した仲間たちは、その後それぞれの人生を歩んでいます。私自身は2002年に帰国し、再び臨床と研究の場に戻りました。一方で、米国での体験は今も私の研究観を支えています。研究は発見の喜びに満ちていますが、同時に成長を促す競争と駆け引きの連続でもあります。若い研究者の方々にはそのようなプロセスにも触れていただき、これからの進路を考える際の一助となれば幸いです。




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