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未来の会

私の海外留学見聞録 ㉕ 〜ロンドン・オンタリオ交遊録〜

私の海外留学見聞録 ㉕ 〜ロンドン・オンタリオ交遊録〜

坂井 義治(さかい・よしはる)
大阪赤十字病院 院長
留学先: ウェスタン・オンタリオ大学(1989年7月〜91年6月)

留学までの経緯

肝臓移植の現場を見たい、できれば海外で修練を受けることができないか。その思いは、1987年に京都大学第2外科(当時:小澤和恵教授)大学院生として帰学し、肝臓移植の研究に携わるようになってからである。その後、88年にシドニーで開催された国際移植学会の懇親会の席で、たまたま隣の席に座ったDr. Bob Zhongとの出会いが留学先を決めることになる。

彼は上海からカナダへ移住した外科医で、University of Western Ontario(UWO)で実験外科を担当しているという。UWOがカナダの代表的な移植センターであると知り、臨床研修の可能性を尋ねたところ、責任者のProf. William Wallに相談してくれるという。まだインターネットなどない時代であり、1カ月後に国際電話で受け入れOKの返事をもらった時の喜びは忘れることができない。最終的に、ロータリー財団奨学生としてUWOへの2年間の留学が決まり、89年7月に出国した。日本の肝移植初症例(生体肝移植)はその年の11月に島根大学で行われた。

留学1年目

臨床研修を受けるには外国人医師資格試験に合格しなければならないと知ったのは、カナダに入国してからであった。当面はresearch fellowとして採用され、臨床で課題であった高齢者の肝臓を移植に使用できるかどうか研究することになる。高齢ラットから若年ラットへの移植モデルを作成し、若年ラット間の肝移植成績と比較する研究である。苦労の末、顕微鏡下に動脈再建を伴うラット肝移植モデルを確立した。高齢ラットの肝臓は若年ラットの肝臓に比較して線維化が進んでいるものの、冷却保存時間による肝障害に差がないこと、レシピエントの寿命にも影響がないことを明らかにした(Hepatology、 Transplantationに発表)。

この研究成果により、UWOでは臨床でもドナーの年齢制限(60歳)が拡大され、高齢ドナー肝も積極的に用いられるようになった。研究と平行して、時に移植手術を見学しつつ外国人医師資格試験の準備も進めた。90年の春に合格、オンタリオ州医師免許を取得し7月からclinical fellowに採用された。日本で第2例目、京都大学で初めての生体肝移植が行われたのはその年の6月15日である。

留学2年目
▲ 帰国前の送別会:右端がDr.Wall、中央の挿入写真がVivian

clinical fellowに採用された翌日、ポケベルが鳴り、ドナーチームの肝臓担当者として臓器摘出に行ってくるよう指示された。臓器提供施設までのリムジン内での2時間は本当に不安であった。同乗していたUWOの心臓外科医が移植コーディネーターへささやいた言葉を今も忘れることができない。「Is it OK with that Japanese guy?」。視線が合うと、「Don’t worry, you’ll be fine!」。これまでの手術見学を思い出し、麻酔医やコーディネーターへの挨拶の後、手術を開始する。腹部操作は順調に進み保存液還流開始後、先の心臓外科医に心臓の摘出が可能であることを伝えると、「Very fast, faster than Bill」。その後は病院内で彼に出会う度に、声をかけてくれることが嬉しかった。初めての摘出臓器を持ち帰るとDr. Wallが笑顔で待っていた。そして、彼と2人でのレシピエント手術が始まる。するとDr. Wall から笑顔は消え、厳しい言葉が矢継ぎ早に浴びせられる。「Not there, Yoshi, suck here!」(吸引するのはそこじゃない、こっちだ)「Easy, easy……」(ひっぱるなよ)「Less than a medical student」(医学生以下だ)——以後毎回、同様の罵声は変わらず、一度も褒められることはなかった。3人のfellowでくじ引きをして、誰が助手になるか決めるのが常であった。ある時は助手をしていたfellowが手袋をDr. Wallの胸に投げ捨てて手術室を出ていったこともある。まさにパワハラの世界だった。医者になって9年目、それまでも、それ以後もあんなに怒られた1年はない。

▲ 送別にもらった錫製の臓器保存用容器

ある日、Dr. Wall から彼の所属するHunt Clubでのゴルフに誘われた。北米のベスト10に選ばれたゴルフコースである。後日来日した際には、京都高島屋で日本製ドライバーを購入するほどのゴルフ好きのDr. Wallとの2人だけでのゴルフは楽しく、他のfellowから羨望された。帰国前には移植チームによる送別会が開催され、私がドナーチームとして専用ジェットで北米内を飛行した総距離が、稚内から沖縄までの29往復に相当することが紹介された。そして、摘出した肝臓を冷却保存するのに使用する錫製の容器をプレゼントされた。その容器の銅板には「Presented to Dr. Yoshi Sakai in recognition of his invaluable contributions to University Hospitals Liver Transplant Program」と記されている。今は我が家のワインクーラーとして重宝している。

帰国後から現在に至るまで

94年に京都で開催された国際移植学会にはUWO肝移植チームが来日し旧交を温めた。また96年には京大の生体肝移植見学のため、Dr. Wallと、私とともにclinical fellowだったVivian McAlisterが来日した。その時は私は移植から離れ、消化器がんを専門とするようになっていた。私が2005年に母校の教授に就任するのとほぼ同時にVivianがUWOの外科教授に就任した。海外では教授は5ないし6年ごとにsabbatical(長期休暇)を取るのが常である。Vivianはその休暇を利用して、アフガニスタンや中東での医療支援、中国での手術指導を行っている。世界平和への貢献や新たな情報収集ができる素晴らしい制度だと思う。日本では今年4月から医師の働き方改革が始まる。約30年前、日本ではまだ患者検査結果の記録紙を切ってカルテに貼り付けるのも仕事だった時代に、カナダでは既にPC画面でチェックできたし、“チーム医療”は日常で、仕事のオンオフが明瞭であった。日本と同様に国民皆保険制度を採用しているカナダの医療者の仕事効率、生活の質の高さ、病院でのDX採用のスピードは、30年ぶりにUWOを訪問した時に全く縮まっていないことを痛感した。

森の中のVivianの邸宅で、Dr. Wall夫妻や、当時の移植コーディネーター達も一緒に盛大な歓迎会を開催してくれた。残念だったのは留学の契機となり留学中に研究指導をしてもらったBobが10数年前に病死したとの報である。東日本大震災の時と同様に、今回の能登半島地震の時にも安否を気遣うメールがVivianから届いた。ありがたい親友である。

▲ 30年ぶりの訪問時の歓迎会:右手前がDr.Wall、正面奥がVivian

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