
久しぶりに参加した精神医学関連の学会で、目が覚めるような経験をした。「かつて医学の中でいちばん哲学と親和性があったのは精神医学だが、今は地域医療だ」という話を聴いたのだ。
「哲学? 自分の日々の臨床や病院経営とは関係ないな」と言わずに、少しおつきあい願いたい。
私が参加した学会の名称は、「日本精神医学史学会」。精神科医と精神医療関係者、それに医療史を専門とする文系研究者が集まるユニークな学会だ。今回の第28回大会も、医学部教員ではなくて立教大学文学部史学科の教員が大会長となって開催された。
私は“元精神科医、元立教大学教員”として招かれ、特別講演を行った。テーマは「精神医学と哲学」だ。実はこれまで、精神医学の中でもとくに症状の記述や分類を重んじる精神病理学は、哲学と伴走するようにしながら進歩を遂げてきた。
ところが、近年はそうとも言えなくなってきた。精神医学が脳科学に近づいたのも理由のひとつだが、そもそも「精神科医を目指したのは哲学や文学に興味があったから」という文系寄りの若手も激減したからでもある。
軽症化する統合失調症
私自身は、精神病理学が哲学と伴走しづらくなった理由のひとつとして、「統合失調症の軽症化」にもあると考えている。私が若手の頃は、統合失調症はまだまだ難治の疾患であり、幻聴や妄想が長く継続する人も少なくなかった。その人たちが語る内的異常体験の世界の凄まじさに思わずこちらも居住まいを正し、聴き入ってしまうこともよくあった。
私自身の経験を記しておきたい。まだ20代の頃、自分が発症した瞬間について言語化して語ってくれた患者さんに出会ったことがある。
有名大学の学生だったとき、教室で授業を聴いていたらだんだん周囲の雰囲気がおかしくなってきたこと。先生がおかしな話をし始め、黒板に思わせぶりな記号や文字を書き始めたこと。まわりの学生はそれを予測していたようで、誰ひとりとして動じずニヤニヤしていたが、自分ひとりが「これはたいへんなことが起きたのではないか」とどんどん緊張度が高まったこと。ついに頭の中で何かが弾ける音がして、それから周囲が猛スピードで回転し始めたこと。
そんな経験談を淡々と話してくれ、その言葉の迫力に思わず息を呑んだことを今でもよく覚えている。
「想像がむずかしい」という他の科のドクターには、映画『ビューティフル・マインド』をぜひ見てもらいたい。
この映画はノーベル経済学賞受賞の実在の天才数学者ジョン・ナッシュの半生を統合失調症を患い、幻覚や妄想に悩まされたことも含めて本人の目線で描いたものだ。これをはじめて見たとき、患者さんが私に語ってくれたことはまさにここで起きていることと同じだと思った。
このような経験をすると、誰もが患者さんの主観の世界が自分のそれとあまりに違うことに驚くとともに、「なぜ私はそういう世界を経験せずに済むのか。正常な世界、正常な自分とは何なのか」と考えずにはいられないはずだ。
ところが、これは患者さんにとっては福音なのだが、最近は統合失調症の軽症化が進み、また薬物療法を中心とする治療の目覚ましい発展もあり、幻覚や妄想についてのまとまった話を精神科医が聴く機会が激減した。そしてそれは同時に、目の前の患者さんの言動から哲学的思考を巡らせる機会の減少をも意味する。
精神医学史学会では、そんな発表をした。すると、その後の質疑応答の時間に、フロアにいた精神科医・西依康先生が手を挙げてコメントしてくれた。それが冒頭に紹介した「今医学でいちばん哲学と親和性が高いのは地域医療」というものだったのだ。西依先生は、私が精神医学の世界を離れて、今はへき地診療所で地域医療に従事していることを知ってくれており、だからこそこう言ってくれたのだろう。
家庭医療こそ哲学の実践の場
西依先生によれば、「今の精神医学の教科書からは『哲学』の章が消えたが、イアン・マクウィニーの教科書『家庭医療学』では『哲学』に1章が割かれている」というのだ。
帰宅してあわてて見返すと、たしかに「家庭医療学の哲学」と記された章がある。そこでマクウィニーは哲学者ホワイドヘッドに注目する。
人間を「関係としての存在」と考えたホワイドヘッドにならい、家庭医療の現場で扱うのは、疾患ではなく「人」であり、その人が生きる家族・地域・文化という多層的な文脈だとマクウィニーは考える。そして、家庭医療を「関係の科学」と呼び、臨床判断を機械的な演繹ではなく、「物語の理解」や「共感的参与」によって支えられる行為だという主張を展開するのだ。
私は「なるほど」と膝を打った。精神病理学が哲学を援用するのは、目の前の患者さんのあまりにも独特な幻覚や妄想の世界をなんとか理解、説明するためであった。
しかしながら、その説明自体がとても難解なものとなりがちで、決して多くの精神科医やそれ以外の医学仲間と共有できるものではなかった。私自身、内科医の知人から「精神病理学? ハイデガーだとかヴィトゲンシュタインだとか、自分たちにしかわからない難しい話をする人たちだよね」と言われたことがある。
そうやって医学の多くの分野が専門化と細分化の道をたどる中で、地域医療や家庭医療はもともとそれへのアンチテーゼとして生まれた側面がある。今や「全人医療」を掲げるだけではなく実践までし続けているのは、もしかしたら民間療法以外では地域医療・家庭医療だけなのかもしれない。
もちろんここで言う「地域医療・家庭医療」というのは大学の講座になるような学問領域だけを意味しているのではなく、地域で開業しているクリニックで行われている実践などを広く指している。そういう場では、あえて哲学を用いたり言葉の再定義を行ったりしなくても、誰もがすでに当たり前に「全人医療」を行っているともいえる。
ただ、たまには自分が行っている医療実践を振り返るために、哲学を使ってみるのも悪くないかもしれない。あるいは、「そうか、自分のやっていることこそ、まさにここで哲学者が言っている『人間中心の医学』『全体性の医学』に他ならないじゃないか」と確認し、ひそかに自画自賛するのも良いかもしれない。
「そのためにももう少し専門的な用語を知りたい」という人は、ぜひ先に挙げたマクウィニーの『家庭医療学』をひもといてもらいたい。
話を難しくするための哲学ではなく、自分がすでにやっていることに厚みを与えてくれる哲学。これぞ新しい“哲学のススメ”と言えるのではないだろうか。
そして、おそらくへき地医療やプライマリ・ケアだけではなく、「中規模都市のクリニックの哲学」「大都市にある整形外科病院の哲学」など、それぞれの臨床実践にそれぞれの哲学があるはずだ。ぜひ「自分が実践している医療と相性の良い哲学はどれだ?」と楽しみながら探してみてもらいたい。



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