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未来の会

第40回 私と医療
ゲスト 篠原 裕希 医療法人篠原湘南クリニック クローバーホスピタル 理事長

第40回 私と医療ゲスト 篠原 裕希 医療法人篠原湘南クリニック クローバーホスピタル 理事長
GUEST DATA:篠原 裕希(しのはら・ひろき)①生年月日:1948年6月2日 ②出身地:大阪府 ③感動した本:『何でも見てやろう』小田実、『白い巨塔』山崎豊子、『恍惚の人』有吉佐和子、『失敗の本質』戸部良一ほか ④恩師:瀬在幸安先生(日本大学医学部心臓血管外科)⑤好きな言葉:「人の価値とは 困難に直面した時に如何に立ち向かうかで決まる(上手くいく時は誰がやっても上手くいく)」(キング牧師)、「敵を知り己を知らば百戦危うからず」(孫子の兵法)、「一葉目を蔽えば泰山を見ず 小豆耳穴を塞げば雷鳴といえど聞こえず」(鶡冠子) ⑥幼少時代の夢:外交官 ⑦将来実現したい事:新設の「地域包括医療病棟」を受け皿に、「高齢者救急」と「在宅医療」を組み合わせる事で、究極の「医療と介護の連携」を実現する。
父母の背中を見て医師の道へ

私の医療観の原点は、大阪市内の下町で町医者として診療所を営んでいた父と、その父を献身的に支え続けた母の背中を日常の風景として見て育った事に在ります。大正生まれの母は、物静かで芯が強く頭脳明晰な人で、当時全国に2校しか無かった女子の受け入れ可能な大阪女子高等医学専門学校(現・関西医科大学)へ進み内科医に。只、父の診療所では、看護師、薬剤師、受付事務、更には患者の悩みの聞き役まで務め、医療を縁の下で支えていました。祖母を自宅で看取った際には、親族が号泣する中「医師として」毅然と脈を取り、臨終を確認しました。気丈にしていた母ですが、火葬場で立ち上る煙を見て突然泣き崩れ、父に抱きかかえられ肩を震わせていた姿は、今でも脳裏に焼き付いています。

後に弟も医師になり、家族全員が医療の道に進む事となった時、「お父ちゃん、家には4人医者がおるんやから病院やろ!」と珍しく自分の意見を主張しましたが、慎重派の父は遂に同意しませんでした。後に私が病院を立ち上げた際、弟がその事を思い出して祝ってくれた時は、本当に嬉しかったものです。

昭和大学医学部時代の出会いと、外科医への決意

医師を目指して進学した昭和大学(現・昭和医科大学)医学部では、多くの出会いが有りました。深夜まで練習に明け暮れたアイスホッケー部では、同期の部員に、後に同大学理事長となる小口勝司氏や前学長の久光正氏らが揃っていました。

深夜2時の練習が終わった或る時、突然小口氏から「“篠”、今日俺んちに泊まれよ」と誘われました。神田の自宅では、お母様が夜食やビール、お風呂までご用意下さり、私は疲れで眠ってしまいましたが、ふと目を覚ますと彼は机に向かって勉強している。正に『文武両道』、衝撃でした。当時の仲間との絆は、今も続いています。氷上で学んだ役割意識やチームを信頼する姿勢は、その後の医師人生や組織運営に確実に活きています。

私達の世代では、「外科医に非ずんば医者に非ず」と言われ、外科医は大学病院の花形でした。週1回の教授回診は、正に『白い巨塔』の世界そのもの。その外科を志す決定打となったのは、ポリクリ実習で出会った2人の熱血教官の存在です。最初は脳外科で、日本医科大学出身で米国帰りの助教授が、「篠原、俺と一緒に脳外をやろう。俺の知っている事は全部教える」と声を掛けてくれました。学生にとって、これ程心を揺さぶられる言葉は有りませんでした。その次に迎えた胸部外科・心臓外科の実習では、最終日、本来学生は術後当直は行わない事になっていたにも拘らず、「晩飯を奢ってやるから泊まっていけ」と、ICUでの当直を経験させて貰いました。24時間煌々と照らされるICU、鳴り止まないアラーム、走り回る看護師達——その光景に、心臓外科のリアルと魅力を突き付けられました。

日本大学、瀬在幸安先生の下へ

実は医学部生時代、私はアイスホッケーに加え、麻雀にもかなり熱を入れていました。小学生の頃から始めた将棋は、近所の道場ではほぼ負け無し。その先読みの感覚が影響したのか、麻雀の腕は中々のものでしたが、学業が疎かになり留年も経験しました。卒業後は昭和大学の外科に残る選択肢も有りましたが、既に上級医となっていた同級生の存在を思うと、気が引けたのも正直なところです。丁度その頃、当時CABG(心筋梗塞の冠動脈バイパス手術)の第一人者である日本大学の瀬在幸安先生の存在を知り、是が非でも薫陶を受けたいと思い、日本大学の胸部外科に入局しました。瀬在先生の下、助手として多くの手術に携わりました。未だ若手の私は手術台の末席で、心臓冷却用のかき氷を一所懸命作っていました。時に怒号が飛び、空気が張り詰める手術室の様子は今でも鮮明に覚えています。

日大医局時代の人工心肺装置やICU術後当直の経験は、外科医の道を究めなかった私にも、その後の呼吸、循環管理にどれ程役立ったか知れません。現在の救急医や総合診療医としての或る程度の技術を身に付ける事が出来ました。

診療所を継ぎ、地域に根を下ろす

1988年、或る縁で湘南に現在の礎となる19床の有床診療所を承継しました。初日の外来患者は8人、翌日は4人。看護師2人と事務員1人の、最小限の体制でのスタートです。患者が1日30人を超えたら皆で温泉に行こうと励まし合い、実際に箱根の温泉に行けた事を、今でもよく覚えています。

患者数は順調に増え、病床も1年で満床になりました。その際、日大の後輩Dr.Ns.グループにどれだけ助けられたかは言葉で言い表せません。しかし、入院患者の身の回りの世話を担ってきた「付き添い婦」が96年に制度上廃止され、看護師の大幅増員が不可欠となりました。この規模で有床診療所の維持は現実的ではないと判断し、2階の病床をデイケア(通所リハビリ)へ転換しました。2000年に介護保険制度が始まると、藤沢市医師会で介護保険担当理事になり、ケアマネジャー1期生でもあります。

この頃、外来は多い日で1日200人を超え、診療所は1つの絶頂期を迎えていました。昼休みの時間を使って訪問診療も開始し、在宅医療を本格化させました。診療所として出来る事の限界と、次に進むべき医療の形が見え始めた04年、120床のクローバーホスピタルを開院しました。開院後も、時代や制度に合わせて病床機能を柔軟に変化させています。医療療養・介護療養病床から始まり、回復期リハビリテーション病床、地域包括ケア病棟へと進化、現在は173床体制で地域の高齢者医療を担っています。地域住民の健康を守り続ける為には、理念だけでなく、経営を安定させ、職員の生活を支える現実的な判断が欠かせません。その為に、進化を止めない事を自らに課してきたのです。

高齢者医療のモデル作りを目指して

今後、注力したいと考えているのは高齢者救急です。高齢者の救急搬送は年々増加し、特に軽症・中等症の割合が高まっています。高齢者患者の多くは複数の慢性疾患を抱えており、こうした患者を速やかに受け入れる事と、全身状態や生活背景を踏まえた上で可能な医療を提供し、より専門的な治療が必要な場合には責任を持って次の医療機関へと繋げていく事は、救急隊の負担軽減、及び、患者にとっての安心にも繋がります。新設の「地域包括医療病棟」を受け皿に、救急、入院、在宅医療、介護、看取りが切れ目無く連携するシームレスな体制を構築し、超高齢化社会に対応する、究極の「医療と介護の連携」を実現したいと考えています。

インタビューを終えて

昭和大学時代にアイスホッケー部で活躍。氷上で鍛えた胆力と判断力は医療の現場に生きる。深夜の神奈川スケートリンクで滑っていた私との思わぬ縁。奇遇は重なる。何と篠原先生は私の実兄と昵懇の間柄だった。兄曰く、「誰よりも医療と介護に熱心に取り組む医師」。静かな闘志を宿す、稀有な臨床医である。(OJ)


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