
満州からの帰国を果たし開業した父への憧憬
父は満鉄病院(現・大連大学附属中山医院)で医師として働いていました。戦後の混乱の最中、ごった返す港から家族全員で船に乗り込み、満州から引き揚げてきたのをおぼろげながら覚えています。帰国後は東京で九段にある親戚宅の一部屋を借りて暮らしていました。それから都内を転々とし、吉祥寺に転居しました。母が日本女子大学の出身だった為、その附属中学校に通っていた姉に連れられて、附属豊明幼稚園に通っていました。小学校は受験をして東京教育大学附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学しました。7歳より、東京藝術大学を卒業しNHK交響楽団で活躍されていた福元裕先生にバイオリンを師事しました。父は帰国してから慶應義塾大学病院の小児科に勤務し、その後に開業しました。夜中でも呼び出されれば患者宅へ駆け付け、患者の為に身を粉にして働く父を尊敬していました。小学校の文集に書いた将来の夢は、北海道で精神科医になる事でした。
医師・音楽家の2つの夢を追う
父への憧れから、小学生の頃から医師になる事を思い描いていました。一方で、バイオリンも続けました。大学受験を前にして最終的な判断を迫られた時、福元先生から「これからどの様な世の中になったとしても、どちらの職業も必要とされる。だが、バイオリンは趣味で出来ても、医者は趣味では出来ない」というアドバイスを貰い、医学部へ進む決心をしました。
大学進学後は勉学と共にアルバイトにも精を出しました。家庭教師の他、元々兄が所属していた東京大学の柔道部が請け負っていた、NHK交響楽団等のステージマネージャーのアシスタントをしていました。繊細な楽器の移動が主な仕事でしたので、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団等のオーケストラの来日時にも手伝いました。リハーサル中に客席から演奏を聴く事が出来たのは幸せなひと時でした。自らもアマチュアオーケストラのコンサートマスターとしてバイオリンを弾く一方で、サッカーやアイスホッケーにも打ち込み体を鍛えました。そして、試験前には決まって徹夜で勉強したものです。
卒業後は父と同じ小児科医になるつもりでしたが、実習の時、外科医をしていた叔父が勤める日本医科大学外科で急性虫垂炎の手術に携わったのが切っ掛けとなり、第一外科(現在の消化器外科)に入局しました。先々代の教授の故・代田明郎先生は、叔父の師匠でもありました。
後輩の想いに応えるべく教授に就任
医局長まで務めたら開業しようと考えていました。ところが、医局長に就任した翌年に講師、その6年後に助教授となり、その機を逸してしまいました。第一外科には幾つかのグループが立ち上がり、私の肝胆膵グループでは生体肝移植に取り組み始めました。既に肝移植が行われていた東京大学医学部附属病院に後輩らが勉強に行き、幕内雅敏先生の協力の下、2000年に本学で1例目となる生体肝移植を成功させました。患者は1歳9カ月タイ人の女児、ドナーはその母親でした。当時は何が起こるか分からず、可能な限りの感染対策を徹底して行いました。移植の前日には手術室に清掃業者を入れて除菌し、移植後も医局員が一晩中患者に付き添いました。
先代の故・恩田昌彦教授の引退が間近に迫った頃、後輩が私の所へ来て、次期教授候補者が我々の肝移植グループを縮小・解消する考えが有るらしいと相談を受けました。私自身、引退まで残り7年しか無く、教授になるつもり等有りませんでしたが、グループの存続を懸けて出馬を決意しました。その後、後輩らの努力により、肝移植の実績も積み重ね、多数の論文を発表していきました。最終的に02年に教授に就任した時には、候補者の中で最多の論文数となっていました。
医学部長に就任した時も、大学院医学研究科長に就任した同級生に誘われたのが切っ掛けでした。私は功名心とは無縁で、むしろ周囲に恵まれ、支えられてきた1人です。教授就任も、後輩達の道を閉ざさぬ為に立ち上がったに過ぎません。仲間の思いに応えようと努めてきた結果、学長にまで辿り着けたのは全くの僥倖であり、21年に瑞宝中綬章を授かったのも周囲の助け有っての稀有な人生だと感じています。
仲間と患者の為に歩んだ医師人生
医師としての道を歩みながらも、バイオリンの練習は続け、東京楽友協会交響楽団に入団し、30年間コンサートマスターを務めてきました。しかし、後輩が夜も寝ずに移植患者の治療に当たっているのに——との思いから、コンサートマスターを降りると共に、オーケストラは休団させて頂きました。しかし、こうして2つの志を遂げる事が出来たのも、福元先生の助言と、良き仲間の理解と支えが有ったからこそと感謝しています。
私は若い頃から、曽野綾子さんの言葉に強く影響を受けてきました。曽野さんは「目の前の1人に誠実であれ」と繰り返し語っておられます。医師とは、自分の名誉や成功ではなく、今そこにいる患者や仲間の為に力を尽くす仕事だという考え方です。曽野さんの言葉には常に深く励まされ、医師として、又教育者として、私が迷った時に立ち返る指針であり続けています。
克己殉公——医師としての精神を持ち続けよ
08年に15代学長に就任してから、新入学生に毎年必ずしてきた話が有ります。「医学というのは、今日まで正しかった事が明日には間違いになる事も有る。だから君達が今やるべき事は、勉強で1番になる事ではなく、何が起きても耐えられる様に体と精神を鍛える事。親から言われて嫌々ながら医者になろうとしている者がいれば、明日退学届けを出しなさい。しかし、もし続けたくなったら、徹底的に鍛えて必ず一人前にする」。それぐらいの意気込みが必要だという事です。そして彼らが卒業する時、この話を覚えているかを尋ねると、大抵の学生は覚えています。
医者は一生勉強と言われます。誰もがインターネットで何でも手軽に調べられる時代だからこそ、尚更、医者は常に勉強し、患者よりも新しい知識を持っていなければなりません。企業を真似て医師の働き方改革を行っている様ではいけません。医者は他の職業とは違うものだという事を改めて示していく必要が有るのです。日本医科大学の学是でもある「克己殉公」、即ち「我が身を捨てて、広く人々の為に尽くす」事は、医師としての心掛けを素晴らしく表した言葉です。この精神が受け継がれる事を願いながら、若き医師の活躍を応援していきたいと思います。
インタビューを終えて
2013年の取材時から田尻孝先生の風貌は少しも変わらない。穏やかな佇まいとダンディーな雰囲気、その奥には揺るぎない医学への矜持が宿る。今年の「集中医療大賞」受賞者である。学長の重責を担う一方、東京楽友交響楽団のコンサートマスターを30年に亘り務めた事実は特筆に値する。医学と音楽、2足のわらじを自然体で履きこなし、理性と感性を高次で融合させる姿は、医師である前に一人の知的教養人としての深みを静かに物語る。医療の現場で培われた厳格さと、音楽が育んだ柔軟さ。その両立こそが、田尻先生の言葉と判断に確かな説得力を与えている。取材の折、繰り返し語られた「人としての医師を育てる」という言葉は、今の時代にこそ必要だ。人を診る医師の眼差しは、当時も今も変わらず、そこに宿っている。その姿勢は実に印象的であった。(OJ)
メカジキのレアカツ
ザ・プレミアム・モルツのコクと旨味に好相性の一皿は、鮮度抜群のメカジキをサッとレアで揚げ、椎茸と長芋のフライを添えた逸品。海苔と酢味を効かせた黄身酢ソースがアクセント。
宮川町水廉 東京ミッドタウン店
東京都港区赤坂9-7-1東京ミッドタウン
ガレリア内ガーデンテラス3F
03-5413-1881
11:30〜14:00(L.O.)
18:00〜21:00(L.O.)
無休(東京ミッドタウンの営業に準ずる)



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