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未来の会

第193回 患者のキモチ医師のココロ
いざというとき家族が方針を変えたら

第193回 患者のキモチ医師のココロいざというとき家族が方針を変えたら

 いまだに「あれでよかったのか」と、ときどき考え込むのが、「看取り」の問題だ。

 いま私が勤務している地域には特別養護老人ホーム(特養)があり、すぐ近くにある診療所が訪問診療などで医療を担っている。Aさんは80代後半の女性で、アルツハイマー型認知症によりこの特養に入所していた。Aさんは意思決定がむずかしく、夫のBさんや子どもたちと何度か話し合いの場を持ち、「延命治療はしない自然な看取りを、なるべくなら暮らし慣れた特養で」ということになっていた。

 次第に食事が食べられなくなっていったAさんは、一日のほとんどをベッド上で眠って過ごすようになった。家族にもう一度、診療所に入院しての医療を希望するかと聞いたが、答えに変更はなかった。

 ついにAさんの血圧は低下を始め、毎週の訪問日ではなかったが医者が呼ばれた。すぐに行くと呼吸状態も悪化しており、最期のときは近いと思われた。幸いなことにどこかが痛むわけでも痰が絡んでいるわけでもない。医療が介入すべきことは何もないと思われた。

 子どもたちは遠方に暮らしていたが、夫のBさんは同じ町内でひとり暮らしをしており、特養からの連絡で間もなくやって来た。

 呼吸の間隔が次第に長くなっていくのを見守りながら、特養の看護師が「Bさん、奥さんに言葉をかけてあげて」と促していると、Bさんが突然、こう言い出した。

 「先生、なんとかしてやれないのかい」

 私は「痛みや苦しさはないようなので、何かする必要はないと思いますよ」と答えたが、Bさんはさらに言う。

 「それでも、注射でもなんでもさ」

 その時点で「何かの症状を取るのではなく、命を長らえるということか」と気づいたのだが、どう答えてよいか迷ってしまった。そして、ようやくこんなことを言った。

 「ここで血圧を上げる注射をしたり酸素を吸ってもらったりしてもあまり変わりはないと思いますし、かえって奥さんの体に負担をかけることにもなると思います」

 その説明で理解してくれたかどうかもわからないのだが、Bさんは「そうか、何もしないってことか」とそれ以上は何も要求せずに黙った。結局、それから間もなくしてAさんの呼吸は止まった。もちろん心臓マッサージなどもしない。瞳孔反射や心拍停止を確認し、形式通りに死亡時刻を伝えた。Bさんはひとこと「もう終わりかい。あっけないもんだな」とつぶやいた。

「それはできません」でよいのか

 実はこれはひとつのエピソードではなくて、いくつかの似たような体験をつなぎ合わせて作った創作だ。つまり、看取りの現場ではこのようなことがしばしば起きるのだ。本人あるいは本人がまったく意思の疎通ができない場合は家族と、「食べられなくなったら点滴もしない」とか「看取りのときはDNR(心肺蘇生適応除外)で」などとACP(アドバンス・ケア・プランニング)ができていても、いざその場面が来ると、考えが変わることがある。もちろん、本人が「やっぱりこうして」と考えを変更してそれを意思表示できたときはそれに従うのだが、家族の中のひとりがそう言い出したとき、医療従事者はどう対処すればよいのか。

 もしACPに関する覚え書きに署名ももらっている場合、それを見せて、「ほら、こうなってるじゃないですか」と示せばよいのだろうか。何度も繰り返すようだが、本人が元気なときに心肺蘇生拒否の意思をはっきり示していれば、そのときに家族が「やっぱり」と言い出しても優先すべきなのは本人の指示だろう。

 では、はじめから本人が意思決定できずACPにも加われていない場合はどうなのか。もちろん、時間があれば「DNRの指示変更」などについて再度、家族と話し合うべきなのは間違いない。ただ、先ほどサンプルであげたケースのように、その場に居合わせたひとりの家族が突然、「こうしてあげて」と言い出した場合はどうか。

 そこで「よし、じゃここで指示変更があったということで、昇圧剤の投与、気管挿管をして人工呼吸器をつないで…」と動く医師はまずいないと思う。ほとんどの場合は「それはできません」と言うはずだし、それで法的な問題が生じるという可能性も低そうだ。

大切なのは「どう話すか」

 ただ、そこで「どう話すか」については慎重になるべきだ。書類などを提示して「ほらここに署名が」などと言うのは、間違いではないが、この場にふさわしいとはとても思えない。だとしたら、あくまで医師本人の言葉として伝え、その家族も「決めた通りで間↙

違いはなかった。このまま自然に見送るのがいいんだ」と納得してもらうためには、いったいどうすればよいのだろう。

 私は、「ここであれこれ医療的処置をするのは、かえってお父様の体を痛めつけることになりますよ」などと言ったこともあるが、あとから考えて「ああいう“脅し”のような言い方でよかったのか」と悩んだ。それに、昇圧剤投与が本当に患者を傷つけ、苦しめているのかも確証があるわけではない。

 別の場面では、「このままいろいろな薬物を体に入れたり、管につないだりせずにいるのが、いちばん〇〇さんらしいと私は思うんです」と言ったことがあった。これは立ち会った家族も「本当にそうですよね」とうなずいてくれたが、もし「いえ、私はそうは思わない。やっぱりギリギリまで生きようとするのがこの人らしい」と言い返されたら、どうなるだろう。

 それに、医師が「私はこれがこの人らしいと思う」などと言えるのは、私のいる診療所のように患者と医療機関の距離がとても近く、スタッフもその人をよく知っているからだ。たとえば週末の出張医などが「いちばん〇〇さんらしい」と言っても、なんの説得力もない。

 こうして考えてくると、正解はないことがわかる。実は身内のことで恥ずかしいが、父親を在宅で看取る際、家族だけで見守る中、呼吸が停止すると、医療従事者である弟が心臓マッサージを始めようとした。「そういうのはしないのよ」と言うと「え、しちゃダメなのか」と返ってきて、「そうよ」と答えながらも説明に窮した。そして、いくら「自然に」と合意ができていても、そのときに何をして何をしないのかは、それぞれの家族あるいは本人にとってもイメージが違うんだな、と思い知らされた。

 「何もしないんですよ」と伝え、そのまま見送った人たちの家族は、その後、どう思っているのだろう。「あれでよかった」と納得しているのか、それとも心のどこかで「もっとやってあげた方がよかったのでは」と疑問を感じたり後悔したりしているのか。

 毎日、全国で大勢の医師たちが同じ問題に直面していると思う。「臨終を迎える場で家族が突然、方針を変えてほしいと言ったとき、先生はどうするか。」多くの人たちから生の声を聴いてみたい。

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