
EUを中心とした枠組みに日本も参加、調整役を担うか
昨年5月に開催された世界保健機関(WHO)総会で、パンデミック条約は合意に至らず最大1年間の継続審議となった。この条約は各国の責務と国家間協力を強化する事でパンデミックに備えようという趣旨で2020年ミシェル欧州理事会議長(当時)が提案した。又、この条約は国際保健規則(IHR)とは別のもので、パンデミック時における治験データの共有や医薬品・医療物資の安定的供給網の確保等、既存の枠組みではカバーしきれていない協力事項に関し、WHOの権限並びに各国の責務を強化する狙いが有る。
新型コロナ感染症でのパンデミックを受けた政府間交渉での論点は以下である。途上国の言い分はワクチンを買う事も製造する事も出来ず何百万人も命を落とした事から、ワクチンの技術移転を進め知的財産権の保護を緩和する等支援が必要だという事である。ワクチンの特許については世界貿易機関(WTO)で合意し開発途上国は特許権者の同意を得ずに特許取得済みの新型コロナワクチンを製造する事が既に可能である。COVAXは新型コロナワクチンの開発、生産を支援し公平に供給するという取り組みであり、途上国を中心に150以上の国と地域が参加した。参加国の中でも比較的裕福な64カ国がワクチン代金を前払いする事でワクチン開発費用に充てられた。この取り組みにはアメリカや中国、ロシア等は参加していない。
日本はCOVAXに参加しつつも、途上国への独自の支援を行っている。台湾、ベトナム、インドネシア、マレーシア、フィリピン、タイ、ブルネイに対して約2466万回分のワクチンを供与すると共に各国の医療体制強化費用として78の国と地域に総額約185億円を提供した。併せて、COVAXを通じてカンボジア、ラオス、バングラデシュ、ネパール、スリランカ、イラン、エジプト、マラウイ、ナイジェリア等に約1938万回分のワクチンを供与している。日本はアメリカに追従するのみならずWHO等の国際機関での役割も全うした事で双方の顔を立てる形をとった。
パンデミック条約は国際保健規則との相互補完
パンデミック条約の作成と並行して修正を進めているのがIHRである。IHRとパンデミック条約とは同様の内容でありつつ、相互に補う内容となっており、公衆衛生に影響を及ぼす可能性の有るリスクについて、保健医療制度を通じて準備し、疾病の国際的な拡大を防止・管理する公衆衛生対策を提供する規則を定めている。コロナ禍で度々発せられた「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)」はIHRに基づいている。IHRを修正する事はPHEICを強化する目的が有る。重大な健康被害を起こすリスクの有る事象、予測不可能、又は非典型的な事象、国際的に拡大するリスクの有る事象、国際間交通や流通を制限するリスクの有る事象の内2つに該当した場合はWHOに通報しなければならないと規定される。通報の内容によっては勧告を出す事で、当該緊急事態が発生した国、又は他国が疾病の国際的拡大を防止又は削減し、国際交通に対する不要な阻害を回避する。その為に人、手荷物、貨物、コンテナ、輸送機関、物品等に関して実施する保健上の措置を行う事をIHRで定めている。IHRの修正の大部分はこれまでIHRで規定されていなかったパンデミックに対応する課題を解消するものである。
政府は23年9月1日に、内閣感染症危機管理統括庁を創設した。感染症危機に係る有事に於いては、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づいて設置される政府対策本部の下で、各省庁等の対応を統括、専門家組織である国立健康危機管理研究機構から提供される科学的知見を活用し、感染症危機対応に係る政府全体の方針を策定し各省庁の総合調整を実施する機関である。IHRでは、参加各国に中心的役割を担う所轄官庁を設立する事が義務付けられている。その担当行政機関を担う事になる。
パンデミック条約への代表的な批判とは
さて、こうしたWHOを中心とした世界各国の政府間での協議と取り組みに対して、批判的な主張も見られる。パンデミック条約に於いて、義務を怠った場合にその国に制裁を加えたり、WHOに強制的な権限を付与したり等という事である。確かにパンデミック下に於いて地域や国を超えてWHOが包括的に対応する事が目的である。しかし、条文案の中にはWHOの勧告や措置に従わない場合の罰則規定は無い。あくまで予防、準備、対応、回復に関する情報や資源を集約するものであって、WHOが支配出来る立場になる事は無い。又、3条1項に各国の保健政策は各国毎の主権を有する事が明記されており、WHOは国家の主権平等、領土保全、内国の不干渉を逆に義務付けられている。
各国独自のやり方は禁止になり各国の憲法、基本的人権も関係無くなるという批判は事実に基づかない。3条2項で人権や尊厳、基本的自由は尊重される事が規定されている。
WHOが提案する医療や対応製品(ワクチン等)を使う事を義務に出来、従っているかどうかの情報を集めたり、違反した人に罰(制限)を与えたりする事も可能となるのではというのも事実ではない。WHOがパンデミック時に於いて主導的、統括的な役割を担う事はその通りであろうが、あくまでも指示勧告は、それを受けた各国の国内法や既存の取り決めを適用される事が、各条文に付されている。よって、WHOが各国の国内事情に関係無く、世界レベルでパンデミックの対応や準備を統治する事は無い。
IHRについても同様に誤解が溢れている。「個人の尊厳、人権、基本的自由を十分に尊重して」というフレーズが削除される事が懸念された事によって、各国の憲法や人権は無視される事になると流布されている。これは明らかに違う。3条1に於いて、人間の尊厳、人権及び基本的自由を完全に尊重して行なわる事が明記されている。勧告時には様々な違ったレベルで、参加国は公衆衛生リスク及び国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態に迅速且つ効果的に対応する能力を構築し、強化し、且つ維持しなければならないとされる。これは各国政府の主導で公平性と一貫性の上に築くものとされる。これらに罰則は伴わない。公衆衛生上のリスクが認められた時には締結国で情報を共有する事が義務付けられる。
WHOが国際的な独裁組織等に成り得ない。中立性、公平性を重んじた規定の下でリーダーシップを執るに過ぎない。ましてやWHOが複数の利益団体とカルテル化している等という主張も行き過ぎである。事務局長は投票で選ばれるし、資金は透明化されている。営利目的の企業も少なからず存在するが、研究開発・生産・備蓄・流通・管理するには必要不可欠な存在である。リーダーが民主的に選ばれ、組織が規定に沿って構築され運営される。その道中で疑義や異論が有れば、協議する場も権利も約束されている。納得出来ない場合は脱退する事も出来る。
パンデミック条約は賛成多数で採択された後、18カ月以内に批准すれば有効となる。新たな疑念が生まれても時間的な猶予は十分に有る。問題が解消されない場合はそもそも条約を批准しなければよいだけだ。IHRの改正も発効するのは採択された旨の事務局長による通報の12カ月後であり、10カ月以内だったら拒否する事も出来る。パンデミック条約等を批判する者はWHOの採択に反すると脱退を余儀無くされると言うがそうではない。その世界的な枠組みから外れるだけの事である。日本はアメリカや中国、ロシアが不参加であってもその立場を尊重し、両面的な支援や協力、情報共有を果たすべきだ。どっちつかずと言われそうだがそれは違う。最も日本らしい「慈善と良心による曖昧さ」は、日本が持つ独自の優位性である。日本は、パンデミック条約を批准、IHR改正も受け入れた上で、不参加国と締約国の間を取り持つ役割こそが日本の使命ではないだろうか。日本が重要な役割を行う時だ。
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