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未来の会

日本のがん治療開発の構造的課題

日本のがん治療開発の構造的課題

「未来予想」が照らし出した創薬エコシステムの現在地

世界のがん治療開発は、今や嘗て無い速度で進展している。抗体薬物複合体(ADC)や二重特異性抗体(BsAb)、細胞・遺伝子治療といった新たなモダリティが臨床応用へと急速に移行し、2020年代前半だけでも百を超える新規有効成分が各国で承認された。治療選択肢は確実に拡張し、がん医療は新たな局面を迎えている。しかし、その成果が全ての患者に等しく行き渡っているかと問われれば、答えはNoだ。特に日本では、海外で承認された新薬の国内導入に時間を要したり、或いは開発自体が見送られる例が続いたりしている。「ドラッグラグ」や「ドラッグロス」は、最早例外的現象ではなく、制度、資本、市場、開発体制が複合的に絡み合った構造的課題を示す言葉として定着しつつある。

こうした状況を踏まえ、25年12月5日に開催された「第15回 がん新薬開発合同シンポジウム」の第1部では、「がん治療開発の未来予想」をテーマに多角的な議論が交わされ、制度改革や新規モダリティを巡る議論を通じて、がん治療開発の今後を考える為の前提条件や方向性が整理された。

しかし議論を丁寧に追っていくと、浮かび上がってくるのは楽観的な未来像そのものではなく、「これ程の科学的成果が有りながら、何故患者への到達が遅れているのか」という現在進行形の問いであった。本シンポジウムは、がん治療開発が進化の途上にある事を示すと同時に、その歩みを阻む制度の接続不全、資本循環の弱さ、技術と臨床の距離、社会実装の難しさといった構造的課題をも照らし出した。希望と課題が同時に提示された点にこそ、第1部の本質が有ったと言える。

制度は整いつつあるが、繋がっていない

日本の創薬環境は、しばしば「遅れている」と一括りに語られるが、実態はより複雑である。早期シーズ開発を想定し、探索的・初期臨床試験をアカデミアやスタートアップでも実施し易くする事を目的としたGCP改正による対応を始め、医師主導治験を含む治験体制の整備、国際共同治験への参画を意識した制度改革等、個々の施策はこの数年で確実に前進してきた。少なくとも、創薬を巡る制度的枠組みの問題点が長年放置されてきた訳ではない。

しかし、国立がん研究センター東病院長の土井俊彦氏が強調したのは、そうした施策が十分な効果を発揮していない理由である。それは制度そのものの欠如ではなく、制度同士が有機的に繋がっていないという点に有る。即ち、制度整備はドラッグラグ解消の必要条件ではあっても、それ自体が十分条件にはなっていない。薬事、知的財産、資金調達、国際連携といった創薬に不可欠な要素は、本来、研究初期から臨床、更には社会実装迄を一貫して見据えた設計が求められる。しかし現状では、それぞれが縦割りの論理の下で個別最適化され、結果として全体最適を欠いた構造となっているのだ。この分断は、特にスタートアップやアカデミアにとって大きな障壁となる。制度は存在するが、その入口が複雑で、利用迄の動線が見え難い。ドラッグラグの問題も、単なる承認審査の遅れとして捉えるだけでは不十分であり、こうした制度接続不全が積み重なった結果として理解すべき現象であろう。

資本市場が示す、もう1つの現実

制度と並び、がん治療開発の行方を左右するもう1つの重要な要素が資本である。ネクセラファーマのInvestor Relations部長である都築伸弥氏が示した市場データは、がん医薬品が世界的には最も成長性の高い領域の1つであるにも拘らず、日本のバイオ・医薬品セクターが資本市場から十分な評価を受けていない現実を明確に示した。市場規模や技術水準だけを見れば、必ずしも劣後しているとは言えない日本の創薬シーズが、株式市場に於いては長期的な成長ストーリーとして描かれ難い状況が続いている。

米国では、創薬バイオに対する評価の中核を機関投資家が担い、高い不確実性を前提とした資金循環が成立している。失敗を織り込んだ上でリスクを分散し、一定の成功例が全体を牽引するという市場構造は、創薬の産業特性と整合している。一方、日本では機関投資家比率が依然として低く、短中期の業績や株価変動に左右され易い投資環境が逆風となってきた。結果として、研究開発に時間を要する企業ほど評価され難いという構造が固定化されつつある。

ここで留意すべきは、この投資家の姿勢を単に「保守的」と評するだけでは、本質を捉え切れない点である。問題の核心は、創薬に内在する不確実性を前提とした技術的価値を、市場価値として評価・共有する仕組みが日本では十分に機能していない事にある。こうした評価手法や対話の枠組みが整わなければ、イノベーションは芽吹く前に停滞を余儀無くされる。

開発主体と臨床導線——役割設計無き創薬の限界

がん治療開発を巡る構造は、ここ数年で大きく変化している。RealizeEdge Partners代表取締役社長の志鷹義嗣氏は、創薬開発の中心的役割が既に大手製薬企業からバイオテックへと移行していると指摘し、新規がん治療薬の多くが新興企業から生まれる現状を示した。

一方日本では、この役割分担が制度面・市場面の双方で十分に共有されているとは言い難く、開発主体の変化が必ずしも円滑に機能していないとの指摘がなされた。研究・開発・上市を国内で一貫して完結させる体制を整えつつある中国と比べても、主体間の責任と役割の輪郭には尚曖昧さが残っていると言えよう。

DDS(Drug Delivery System:薬物送達システム)やタンパク質工学など技術的進展が進む一方で、「効く薬を作る」事と「安全に患者へ届ける」事の間には必ずしも十分に接続されていない側面が有り、副作用制御や投与設計、適応選択といった臨床導線の設計が弱いままでは、技術的ブレイクスルーは社会的成果へと転換されない。

技術、臨床、企業、資本が前進しながら嚙み合わない現状は、日本のがん治療開発の構造的限界を端的に示していると言えるだろう。

社会実装は後工程ではない

本シンポジウム第1部の議論を通じて浮かび上がったのは、社会実装が「最後の工程」として位置付けられてきた日本型創薬の限界である。研究成果が一定の水準に達してから事業化や市場導入を考えるという従来の発想では、シーズとニーズの乖離を埋める事は出来ない。どれ程優れた技術であっても、臨床現場や患者像との接続が不十分であれば、成果は宙に浮いたままとなる。

日本医療研究開発機構(AMED)で創薬環境全体の調整を担う下田裕和氏は、日本の創薬課題を「能力不足」ではなく、「接続と設計の問題」と捉え直す必要性を改めて示した。研究、非臨床、臨床、事業化、国際展開を縦割りで進めてきた従来の枠組みそのものが、グローバル競争に於ける機会損失を生んできたという指摘は、本シンポジウム第1部の議論を俯瞰的に束ねるものであった。

ここ迄見てきた様に、本シンポジウムが明らかにしたのは、がん治療開発が単一の要因によって左右されている訳ではないという点である。制度、資本、開発主体、技術、社会実装——何れも個別には着実に前進しており、その潜在力は既に備わっている。一方で、それらが相互に十分に接続されていない為、成果が最大化されていない現状が浮かび上がった。言い換えれば、この接続をどの様に設計し直すかが、日本のがん治療開発が次の段階へ進む為の重要な鍵となる。

では、この断絶が解消された時、何が起こるのか。未来予想を敢えて限定的に語るなら、日本のがん治療開発は、単に遅れを取り戻す段階を超え、独自の価値を備えたエコシステムへと転じる可能性が有る。制度が接続され、資本が循環し、技術と臨床が同時に設計される時、創薬は研究成果の集積ではなく、社会的インフラとして機能し始めるだろう。逆に言えば、この接続が成されない限り、日本のがん治療開発は大きな失敗を回避し続ける一方で、世界を牽引する成功にも到達しないまま推移する。分水嶺は目の前にある。未来は遠くを見通して予測するものではなく、今この時点で、どの様に設計されるかによって形作られるのだ。議論はもう十分尽くした。第一歩を踏み出せ。

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