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未来の会

第189回 患者のキモチ医師のココロ
元教皇フランシスコの理想は「野戦病院」

第189回 患者のキモチ医師のココロ元教皇フランシスコの理想は「野戦病院」

 「病院(医療機関)ってどんなところ?」と聞かれたら、あなたは何と答えるだろうか。私はつい「職場」と答えてしまいそうだが、それをまた反省させられることになった。

 世界に13億人いるとされるカトリック信徒のトップに位置するローマ教皇フランシスコが、2025年のイースターの翌日にあたる4月21日に亡くなった。今年は日本でも映画『教皇選挙』が封切られ、鑑賞した人も多いと思うが、まさに現実の教皇選挙を経て新しい教皇レオ14世が誕生することになった。ただ、フランシスコ元教皇は宗教の枠組みを超えて世界中から愛された人だった、という事実はこれからも変わらないと思う。

 「フランシスコ元教皇と医療に何の関係があるのか」と思われるかもしれないが、実は基本的なところでつながっている。フランシスコ元教皇は常々、教会を「病院」にたとえ続けていたのだ。より正確には「教会は野戦病院」と言っていた。

 これはどういう意味か。フランシスコ元教皇は13年に就任した直後から、難民、貧困や紛争に苦しむ人、囚人など社会的に弱い立場にある人、追い込まれた人などへの支援を行ってきた。誕生日にはバチカン宮殿にローマのホームレスを招き、ともに食事をしている写真を報道で見た人もいるだろう。

 こういった自らの活動を通して、ほかの教会や信徒にも「自分たちの宗教や組織を守ることにのみとらわれず、常にその外にいる孤立した人たち、困難にある人たちに癒しの手を差しのべなさい」と呼びかけた。そのことをひとことで表したのが、「教会は野戦病院」という比喩なのだ。

 そうやって教皇からボールを投げられてから、12年の歳月が流れた。私たちの働きの場である病院(医療機関)は、この間、「その通りです。教会もぜひ私の病院のように、苦しみ傷ついている人たちを癒す場であってください」と胸を張って言えるような場であり続けられていただろうか。

話題作『透析を止めた日』の壮絶さ

 昨年の話題作、ジャーナリストの堀川惠子氏の『透析を止めた日』(講談社)は、すべての医療従事者に読んでもらいたい1冊だ。自らの夫が人工透析、腎臓移植を経て再び透析を受けることとなり、ついにはそれも断念して死を迎えるまでの克明な記録と、わが国の人工透析の現状や透析患者の緩和ケアの可能性などについて多数の専門医への取材によるルポとの二部構成となっている。

 人間的でありながら冷静さを失わない視点でこれまで数々の労作をものにしてきた堀川氏だが、透析を止めた夫が入院中の病院で迎えた最期に関しては「ぶつける先のない怒りに似た黒い感情」を長く抱えざるをえなくなる。

 たとえば、透析の苦しさに耐えられなくなり、中止するという決断をした夫妻に、主治医は下肢の壊疽に対して行っていた抗生物質の点滴も止めると告げる。その理由を問うと、「全部外した方が、分かりやすいですから」という答えが返ってきたという。透析つまり苦痛を伴う延命措置の中止の申し出は、「すべての医療を打ち切ってほしい」という意味ではなかったのだが、患者や家族としては何も言い返すことはできなかった。その後も補液だけは続けられ、溢水による呼吸苦を心配した堀川氏の問いかけに、「あなた!目に見えない水分が蒸発してるって、知らないんですか!」と「部下を叱りつけるような物言い」が浴びせかけられたこともあった。

 さらに、壊疽の悪化で痛みが激化し、持続的な鎮静を頼んでも「いえ、そういう薬の使い方はできないんです」とあっさり却下。「もう数日で死ぬと分かっている患者を、とことん苦しませたうえでしか対処できない」のか、と堀川氏の絶望は深まる。そして、いよいよ最期を迎えようというとき、回診に来た主治医は「まさか、今朝までもつとは思いませんでした。(中略)もう、今夜あたりでしょう」と言うのだが、疲れ切っている中で目の前の夫のケアに全力で集中している堀川氏は「もう怒りはちっとも湧いてこない」と感じる。

 後に透析現場や関係者への丹念な取材を通し、堀川氏はがん医療では常識となりつつある緩和ケアが人工透析では認められていないこと、医師らは過酷な労働環境におり看取りはその片手間で行わざるをえないことなどを知る。その中で夫の主治医にも同情的な視線を向けるようになる堀川氏だが、一方で、そんな現場でも「病院が与える医療じゃなくて、患者さんにとって何が大切かを考える、これでしょう」と言い切るような医師たちとの出会いもある。

あなたは「患者さんに向き合っている」と言い切れるか

 そのひとりである福島県いわき市のかしま病院透析センター長・中野広文医師は、腹膜透析の普及を通して腎不全患者の在宅看取りにも力を入れている。取材で訪れた堀川氏に、中野医師はこう語る。

 「患者さんに向き合うということ、死に向き合うということは、はっきり言って手間もかかるし面倒くさいことです。ですが、それを避けて通ろうとすれば、患者さんのために、という仕事はできなくなります。」

 ここに至って私たちはやっと、フランシスコ元教皇が「教会は野戦病院であるべきだ」とたとえた際のイメージに近い医療機関のかたちを見ることができる。その基本にあるべきなのは、「患者さんにとって何が大切かを考える、患者さんに向き合う」ということだろう。

 間違ってはならないのは、これは「すべて患者さんに選ばせる」という意味ではない。傷つき弱っている人、病いで苦しんでいる人に「さあ、あなたはどうしたいの?こっちが一方的に与えるのではなくて、あなたが必要なものを選んでいいんですよ」と選択や決断を丸投げするのはあまりに酷だろう。教会が目指した「野戦病院」でも、まずは生命の安全を守り、基本的な手当てを行い、食べるものや着るものを与え、今後のことを考えるのはそれからになるはずだ。

 ただ、中野医師が答えたような信念を保ち続けながら医療を行うのは、とてもむずかしいことも知っている。私自身、それが実践できているという自信はとてもない。「いまの女医さん、最近なんか冷たいよね」と地域の人が話していた、というウワサを耳にして、「そう見えたのならそれが事実ということだ」と自分の未熟さに落ち込むこともある。それでも、折に触れて「患者さんに向き合う」という医療の原点に立ち返り、その気持ちが鈍化したら、賽の河原で小石を積み上げるように何度でも一からやり直していくしかないはずだ。

 私自身はカトリック教徒ではないのだが、「教会は野戦病院であれ」と言い続けたフランシスコ元教皇に、「いえいえ、めっそうもない。病院はあなたが理想としているようなところではないのですよ」と言わなければならないとしたら、それは恥ずべきことだと思ってきた。教会が「傷ついた人が駆け込み、弱っている人と常に向き合う野戦病院」を目指すのなら、私たち医療関係者こそ、そのお手本を示さなければならないだろう。すぐにそれができなくとも、せめて「患者さんをさらに傷つける病院や医者」であることだけは避けたい。何歳になっても考えさせられることばかりである。

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