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未来の会

私の海外留学見聞録 40
〜ロサンゼルス留学で経験したこと、考えたこと〜

私の海外留学見聞録 40〜ロサンゼルス留学で経験したこと、考えたこと〜

米井 嘉一 (よねい・よしかず)
同志社大学生命医科学部 教授
留学先: カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)(1986年4月〜89年3月)

私は1986年から3年間カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に留学した。研究室は消化管研究の先駆者のDr. Morton I. GrossmanがWest Los Angeles Veterans Affairs Medical Center内にUCLA関連施設として設立したCenter for Ulcer Research & Education(CURE)であった。この研究室には世界中から若手研究者が集まり、多くの研究成果を上げていた。私のボスはDr. Paul H. Guth(2017年逝去、享年90歳)。慶應義塾大学医学部消化器内科を中心に日本から多くの留学生を受け入れていただいた。日本人の英語を辛抱強く聞き、わかりやすい英語を話し、論文を高閲してくれた偉大なる恩師であった。

発音の壁と英語習得の試練

3階建てでレンガ作りの建物には研究室が約15部屋、それぞれの研究室に1〜3人の日本人研究者がいるから総勢は20人以上。全員が日本各地から集まった消化器病領域の医師であった。昼休みともなると、ぞろぞろとでてくる。私は28歳のもっとも若造であった。初対面でも挨拶をかわし、敷地内の食堂に行けば誰かと会い、ベンチで弁当やテイクアウトランチを食べる。当然、日本語。あっという間に日本人の交流の輪が広がった。帰国後も消化器病学会や消化器内視鏡学会でお会いしたり、共同で論文を書いたり、40年近くたっても親密な交流が続く仲間も少なくない。

研究室の日本人3名には移民に英語を教える教師が付いた。英語で話す上で大切なことは鍵となる単語を正確に伝えること。私がショックを受けたのは「車(car)」が通じなかったことである。先生は「牛(cow)」を思い浮かべた。「please」「coffee」の「イー」の発音は口を横一杯に広げて笑顔を見せること。「f」の発音は「v」と同じように下唇を上の歯で噛んでから発すること。「W」は「ダブル(double)」ではなく「ダブルユゥー(double u)」など、とにかく子音と母音の発音を徹底的に習った。単語の綴り(スペル)を相手にはっきりとわかるように伝える練習を繰り返した。

綴りのわからない単語は耳で聞いた音を再現すると良い。当時人気のタコス店(メキシコ人経営)でメニューにないアボカドソースを注文する時には、「ワカモリ」と、思い切りアゴを引いて腹の底からうなるような声で「モ」を強調して発音すると、通じる。切符を買う時には「チケット」より「テケト」の発音が近い。

ロサンゼルスで日本語だけの生活に甘えてしまうと英語が上達しない。英語を使う機会を積極的に作る必要があった。研究補助の技術員(テクニシャン)や他大学からの在外研究員(サバティカル研究員)との英語での交流はランチやパーティーから始まった。アルゼンチン、イタリア、イングランド、オーストリア、カナダ、スペイン、台湾、西ドイツ(統一前)、フランス、香港、レバノンと、研究員の出身地も多様で、それぞれの文化を背負っていることを知った。

異国の研究室での個性豊かな仲間たち

真面目なドイツ人のイメージぴったりのペーターは、得意料理が南イタリア風ラムシチュー(絶品)で、休暇はイタリアに行くことが多いという。「イタリア人になりたいのか」と言うと怒っていたが、きっとバカンス中はイタリア人気分にひたるはずだ。マウロはおちゃめで、おしゃれで陽気なローマ系イタリア人(しかしイタリア人をイメージでひとくくりにするのは誤りだ。その後出会ったイタリア人研究者の多くはガチガチの真面目人間だった)。「平和な時代で良かった」と3人で真面目に話すこともあった。日独伊三国同盟の歴史が皆の頭に残っていたのだ。

アルゼンチン人研究者パウロは大のサッカー好き。1986年FIFAワールドカップメキシコ大会の期間は実験そっちのけで、彼の解説を聞きながら、研究室でテレビ観戦した。ディエゴ・マラドーナが大活躍、アルゼンチンが優勝、いつも理知的でタンゴが似合う彼がこの時は大興奮していた。この経験は私をサッカー好きに変えた。以来、2006年ドイツ大会(対クロアチア)、14年ブラジル大会(対ギリシャ)、18年ロシア大会(対コロンビア)、22年カタール大会(対ドイツ、対コスタリカ)に出席(?)している。私が観戦した時の日本代表は、対コスタリカ戦まではなんと負け知らずだった。

気が優しくて力持ちの技術員ギャリーは退役軍人。3年の間に彼の離婚と再婚に立ち会った。再婚相手は120kg近い体重だったが、彼女の生活には驚かされた。ベッドはウォーターベッドでないと褥瘡ができること、ヴィーガンも太ること、アイスクリーム、カッテージチーズ、ヨーグルトもバケツサイズの容器で食べること、肥満者専門服店に連れて行ってもらった時には自分が小人になったように感じたこと、そして彼が双子の父親になるまでの過程、などなど。まさか私も数年後に双子の父親になるとはまったく想像しなかった。

コロラド大学からのサバティカル研究員ジョン(アメリカ人)はとにかく早食いだった。ある日のランチは中華料理のチンジャオロースで、タケノコ、ピーマン、豚肉が1〜2cm程度にきざまれた炒め物であった。彼は2、3回噛むだけで飲み込んだ。「米井、お前はなんでそんなに噛んで食べるんだ。こんなに小さく切ってあるぞ。噛む必要ないじゃないか。お前もやってみろ」ものは試しと私も挑戦、料理を噛まずに飲み込んだ。結果は悲惨だった。のたうちまわりたくなる腹部不快感に1週間悩まされた。消化器内科専門医として咀嚼の重要性を再認識したのであった。今では肥満者向け「食育」講義で「噛めっ! 噛めっ! 噛んで噛んで噛みまくれ! どろどろになるまで噛むんや! どろどろになったらそこで飲み込むんや!」と叫んでいる。

異文化の中で学んだ人生の哲学
お世話になったDr. Guth夫妻

40年近く経過した今、欧米人と日本人とで大きく異なるのは膵臓パワーだと確信している。膵臓が作る消化液には脂肪分解酵素(リパーゼ)や蛋白分解酵素が含まれ、油や肉の消化吸収に欠かせない。欧米人には強力な外分泌機能があるからこそ、ろくに咀嚼しなくても油や肉を摂取できるのであろう。もう1つは膵臓の内分泌機能、すなわちインスリン分泌能力である。インスリンには血液中の糖を細胞内に移動する働きがあり、その結果血糖値が下がる。彼らは食べても食べてもインスリンが出続けるため、細胞内に糖が移行して中性脂肪にかわってたまり続ける。すなわち肥満になれるわけである。一方、日本人が食べ続けると膵臓が疲弊してインスリンが出なくなり糖尿病になってしまうのである。

私は1989年4月13日に帰国した。帰りの日付を何故よく覚えているかというと、この日は13日の金曜日で信心深い人たちには人気がないはずだ、飛行機「テケト」が安く手に入るのではないかと仮説を立てたからである。格安航空券などなかった時代、確かに安かったと記憶している。サンパウロ発ロサンゼルス経由成田空港行きのヴァリグ・ブラジル航空。機内には迷信などものともしない南米の若者が多かった。長旅でお疲れの様子だった彼らも次第に元気を取り戻して、機内には陽気なギターラと歌声があふれたことを思い出す。こうして私の3年間のアメリカ留学は終わった。日本は昭和から平成に変わっていた。

海外留学の経験から「ひと皮むけば人間皆同じ」であることを学び、私の生き方の礎となっている。

仲良しのフェロー。
左からアメリカ人のトム、ドイツ人のペーター、日本人の私、イタリア人のマウロ

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