SHUCHU PUBLISHING

病院経営者のための会員制情報紙/集中出版株式会社

未来の会

第1回 私と医療

第1回 私と医療

ゲスト 髙久史麿
公益社団法人地域医療振興協会会長

髙久史麿(たかく・ふみまろ)①生年月日:1931年2月11日 ②出身地:釜山(韓国) ③感動した本:W.Oslerの伝記 ④恩師:中尾喜久先生(東京大学医学部第3内科教授)、衣笠恵士先生(東京大学医学部第3内科講師) ⑤好きな言葉:努力、絆 ⑥幼少時代の夢:物理学者 ⑦実現したい事:地域医療振興協会がPrimary careの寄附講座をつくること
——どんな少年時代だったのですか?

 昭和6年、父親の勤務先である朝鮮総督府があった韓国・釜山で生まれました。1歳になる前から歩けたので、将来は大変な運動選手になるだろうと言われていたようです。小学校時代、兄の成績はいつも一番でしたが、私は普通の成績でした。教育熱心だった母は、担任の教師に「兄があれだけ出来るのだから史麿の成績を何とか上げて欲しい」とお願いしたそうです。

 中学校は朝鮮随一の名門校京城中学に進み、1年時は皆、寮に入る決まりなので、初めて家を離れた生活を経験しました。終戦は中学3年の時で、引き上げて来たのは昭和20年9月。九州でも名門校の1つの小倉中学の3年に転入出来ました。得意科目は数学で、嫌いな科目は英語。ただ、いつまでも苦手ではまずいだろうと、英語の本を読みまくりました。その甲斐あって、英語の先生が私の英作文を模範英文としてクラスに紹介してくれたことがあります。それ以来、苦手意識は消えました。先生の1つの褒め言葉や行動が、生徒を大きく変える見本ですね。

東大に進学し造血因子を研究

——どんな学生でしたか?

 高校は旧制第五高等学校に挑戦し理1に合格しました。小倉中学から僅か3名という狭き門でした。1年生は全寮制で、2年時からはYMCAの「花陵会」に入寮し、近くにあったバプテスト教会に通いました。小倉中学時代、西南女学院の女性宣教師のサークルに入っていたこともあり、キリスト教への興味も増して洗礼を受けました。理1で物理を専攻するつもりでしたが、講義が余りにもつまらなかったので医学部に行く事にしました。

 進路について、最初は兄もいた九州大学を考えていましたが、広島で開催されたYMCAの大会で、洗練された東京の学生たちに感化され「俺も東京に行こう!」と。九大と東大の両方から合格を貰い、昭和25年に東京大学医学部に入学。農学部の前にあったYMCAの寮に入寮できました。ここで出会った寮生とも、今に至るまでの付き合いとなっています。五高の先輩で劇作家の木下順二氏が、寮の前にあった「南米コーヒー店」を溜まり場にしていた事から、自然と新劇なども見るようになり、まさにハイカラな学生になっていきました。

——当時の医学部の様子は?

 臨床実習はそれほど多くなく、講義中心の授業で、既にドイツ語ではなく英語がメインでした。卒業は昭和29年。インターン後に医師国家試験に合格し、通称「冲中内科」に入局しました。東大の内科は一内(第一内科)、二内、三内、四内と分かれていて、今思えば、この制度は良くなかったですね。相互の交流が出来ませんでしたから。

 専門は血液内科で博士論文は「赤血球内遊離プロトポルフィリン値」です。中尾喜久先生のご研究が血液学でしたので、それに続きました。その後、一学年下の平嶋邦猛君と赤血球の造血因子であるEPOの研究を始め、沖中内科の専門が神経でしたので、神経と造血の関係を研究。その論文がNature誌に掲載されました。自治医科大に行った後も、三浦恭定君の論文がBlood誌に掲載されています。造血幹細胞の存在に否定的だった時代に、それを覆す画期的な研究でした。

 昭和33年に中尾先生が群馬大学の教授になられた時に、助手として呼ばれました。初めての給与は嬉しかったですね。この時は患者を診て、当直もあり、新人の指導もあり、自分の研究もあり、人生で一番働いた時期かも知れません。でも、楽しかったですね。東大に残っていた平嶋君を呼び、自分のアパートに泊めて一緒にEPOの研究に没頭することもありましたし、週末はスキーに出掛けたり、自動車教習所に通ったりと、貧しいながらも群馬での生活を謳歌していました。運転免許の実地試験で1度落ちましたが、この試験に落ちたのが人生で唯一の経験です(笑)。

東大教授時代は保守的体制を改革

——アメリカに留学されていますね。

 昭和35年に東大へ戻った後、シカゴ大学へ留学しました。シカゴ大を選んだのは、中尾先生も行かれていた事と、ノーベル賞候補にもなったジョコブソン教授がいたからです。実際に付いたのはゴールドワッサー教授でしたが、留学中にEPOの研究成果を3本の論文にまとめる事が出来ました。研究以外でも印象に残っている事があります。1つは、シカゴのある金持ちがシカゴ大学の医学部生に奨学金を出す理由が、「より社会のためになる」だったことです。もう1つは、アメリカの教授の言葉で、「自分を抜擢してくれた恩師に感謝し、私は若い優秀な人を抜擢する事が恩返しだと思っている」というもの。これは私が教授になった時に参考にしました。

——自治医科大学に移られたのは?

 昭和46年になると「第三内科」の話題は定年が迫っていた中尾先生のその後の進路でした。そんな時、中尾先生の自宅に呼ばれ「冲中先生から自治医大の学長の要請を受けたが、どうしたものか」と相談を受けたので、是非ともお引き受け下さいとお願いしました。私自身も昭和47年に自治医大教授になりました。創設準備時からやって来たので、開校の時はさすがに嬉しかったですね。

——その後、東大で教授になります。

 自治医大の10年はアッと言う間で、東大の教授選に出る話が沸き起こって来ました。自分の周囲の意見は賛成半分、反対半分でしたので、人生で初めて占い師の話を聞く事にしました。占い師の話は「出る」でしたね。そして、昭和57年に東大の教授に。先輩や後輩からは驚きの声が上がりました。私の指導医だった衣笠恵士先生は「髙久君が教授になるとは思わなかった」と祝辞をのべられましたが、私自身も同じ思いでした。

 直ぐに保守的な体制を変えることに着手しました。他大学からも医局員を受け入れる門戸開放をやり、医学部長の時には今迄長時間を費やしていた教授会を1時間以内にしました。忙しい先生ばかりですから、これは喜ばれました(笑)。また、教授回診のときに患者の前で担当医に注意することを止めました。叱られた担当医は、患者からの信頼を失いますからね。

——東大退官後も精力的に仕事をされました。

 国立医療センター院長を引き受けたのは、自治医大の卒業生は出身地の都道府県に戻り厚生省(当時)が監督する病院で働くので、厚生省との人脈を作ろうと考えたからです。

 平成8年に自治医大の学長になり、江古田の自宅から毎日2時間弱の通勤が始まりました(笑)。移動の時間はほとんど読書でしたね。沢山の本や論文を読みました。誰が見ているかわからないので、週刊誌などは自宅で読んでいました。自治医大では国家試験合格率アップのための勉強会「日光組」を復活させ、若い学生や先生と一緒に勉強したのがいい思い出です。学長の仕事で多忙になりましたが、アメリカ血液学会だけは役員となっていたのとシカゴ大学留学時の先生方にも会えるので、工面して毎年出掛けていました。

 平成19年には平成天皇・皇后両陛下の自治医大御行幸があり、大変に貴重な経験をしました。両陛下は授業にもお出ましになったのですが、先生も学生も緊張していました(笑)。

若い医師や学生の教育に取り組んできた

——日本医学会会長として取り組んだことは?

 平成16年に会長になったのですが、一番の取り組みは日本医学会の一般社団法人化です。多くの学会員から日本医師会からの独立を求める声があり、無事、日本医学連合会を立ち上げることができました。平成24年には瑞宝大綬章を頂きました。大変な栄誉です。長いこと医療界へ貢献したご褒美としての受章でしょうが、私は若い医師や学生の教育に取り組んだ事へのご褒美と思っています。

 今も変わらずに忙しいのですが、テニスだけは毎週末に続けています。54歳の時に始めて34年。明日もテニスに行きます。それなりに病気もしましたが、変わらずにテニスが出来るのですから、元気でいるのは有り難いですね。これからも変わらない生活を続けて行きたいと思っています。


【インタビューを終えて】髙久先生の言葉は他人への思いやりに満ちている。その人生は見事に充実している。ご本人の努力と多くの仲間の方々の支えがあってこそと思えた。研究に、指導にと縦横無尽の活躍をする中で人間的魅力一杯の先生が誕生したに違いない。日本の医療界の大御所としてこれからも指導力を発揮して頂きたい。

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

COMMENT ON FACEBOOK

Return Top