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医師だからこそ舌がんを早期発見できた

医師だからこそ舌がんを早期発見できた

青木厚(あおき・あつし)1969年長野県生まれ。2002年福井医科大学(現・福井大学医学部)卒業。長野赤十字病院、川崎市立川崎病院、自治医科大学附属さいたま医療センター勤務。10年同大大学院入学。14年同大学院で医学博士号習得。15年青木内科・リハビリテーション科開設。今年3月現在の名称に改称。


第31回 あおき内科 さいたま糖尿病クリニック院長
青木 厚/㊤

 人より周回遅れ、32歳で念願の医師になった青木厚は2010年、40歳で舌がんを発症した。再発したくない一心で考案した食事療法は、自身の健康を支える。糖尿病専門として、肥満や糖尿病を抱えている患者達に向けても、医学的に理に叶った療法として効果をもたらしている。

 最初に異変を感じたのは、福井医科大学(現・福井大学医学部)を卒業して、長野赤十字病院(長野市)で研修を始めた2002年のことだった。辛い物を食べると、頬の粘膜や舌に痛みが走った。口内炎だろうと思ったが、念のため耳鼻咽喉科を受診すると、「口腔扁平苔癬」と診断された。特段の治療もないままに、程なくして痛みは消えていった。

 将来、地元に戻って開業することを見据えて、内科で修行を積みたいと、自治医科大学附属さいたま医療センター(さいたま市)の総合診療科を経て、2008年からは内分泌代謝科に移って、糖尿病の診療を究めようとしていた。

歯磨き後に舌の異変に気付く

 2009年12月のある朝、歯を磨いた後に鏡を覗くと、舌の左側の前部の裏側が1cmほど真っ白になっているではないか。今回は、痛みも痒みもなかった。医学生時代に教科書で学んだ「口腔白板症」ではないかと見当をつけ、自院の歯科口腔外科を受診すると、予想通りの診断が下った。口腔白板症は口腔扁平苔癬よりもがん化する率が高いことが知られており、担当の歯科医から「時折、口腔内に注意を払うように」と忠告された。

 翌年、青木は40歳で大学院に入学、忙しさに拍車がかかり、自身の健康に気を払う余裕はなかった。当時は“無給医”だったが、リハビリテーション医として修行中だった妻との間に2人の子が生まれていた。10月のある日、白板症のあった舌の左側に痛みを感じた。真っ赤に潰瘍化していた。口内炎と似ているため見過ごされることが多いが、舌がんだと直感した。

 その日のうちに、以前と同じ口腔外科医の診察を受けると、転移のないステージ1ながら舌がんだった。舌がんは非常に進行が速く、診断がついた時点でステージが進行していることが多いが、「自分が医師だからこそ、早期発見が可能だった」。

 しかし、局所の小さな病変がリンパ節に乗って転移することもあり得る。両親は健在で、身内にはほとんどがん罹患者はいない。酒は好きだが、口腔がんの最大のリスクとされる喫煙歴はなかった。不規則な生活で下腹が出る中年太りの体型になりつつあったが、運動もそれなりにしていた。とりわけマラソンにのめり込み、毎日10kmほど走り、ハーフマラソンなどの大会に出場していた。

 「俺はがん体質なのか、他のがんにもなってしまうかもしれない」。悪い方へ想像が巡っていく。5歳と3歳の娘に加え、妻は3人目の子を身ごもっていた。アルバイト頼みで生計にも不安があった。早く治療を受け、がんの恐怖から逃れたかった。

 医師である妻に告げると、比較的冷静に病名を受け止めた。青木は、そのまま歯科口腔外科で治療を受けることを考えていたが、がんは全身の病気であることもあり、歯科医師でなく医師の治療を受けた方が良いのではないかと、妻は進言した。

 都内でも口腔がんの症例数が多い東京医科歯科大学耳鼻咽喉科への紹介状を書いてもらうことにした。新たな主治医は、青木のがんが初期であることから、手術に加え小線源(イリジウム針)を舌に挿入し、がんに対して放射線を組織内照射する小線源治療で舌を温存する選択肢を提示した。だが、青木は、一刻も早くがんを体内から消し去りたいと、ためらうことなく切除の道を選択した。

 幸いなことに、月額4000円ほどかけ続けていたがん保険から200万円の診断一時金が支払われることになり、当座の生活の不安が払拭された。

紆余曲折しただけに医師の道全うしたい

 がんを宣告されたことはつらかったが、振り返ってみると、医師になるまでの道のりも相当険しかった。やっと掴んだその道を外れることなく、とことん全うしたいという強い信念があった。

 青木は1969年、姉2人の末っ子として長野県千曲市に生まれた。身内には教員が多く、青木の父も高等学校の体育科の教師で、漠然と自分もその道に進むのだろうと思っていた。理数系の科目は得意だったので、現役で東京理科大学理工学部物理学科に入学した。4年生の夏には、長野県の教員採用試験を受けて補欠で合格していたが、自分の生涯の仕事にするという思い入れは薄かった。

 その頃、高校時代一時迷っていた医学への思いが蘇り、教員から医師へと軌道修正した。4年生の後半から医学部を目指して再び受験勉強を開始。学費の負担を考えると国公立しかないが、すんなりとはいかず卒業すると自宅に舞い戻った。宅浪生活をスタートしたのだが、就職もせず自宅にこもっている息子の姿に両親は心配していたはずだが、見放すことはなかった。

 ひたすら受験勉強に励んだが、2回目の受験でも目指す国公立大学医学部には受からなかった。そして翌年、3回目で徳島大学歯学部に合格。つらい浪人生活から逃れたくて入学したものの、1年が経つ頃、やはり違う道だと思った。再びの受験勉強で福井医大の合格を勝ち得た。両親は念願叶って納得する我が子に援助を続けてくれた。

 家族も巻き込んで、苦労して勝ち取った医学の道であり、がんで怯むわけにはいかなかった。有給休暇をもらえる身分ではなかったが、内分泌代謝科の医師に舌がんで手術が必要なことを伝え、休みを願い出た。主治医は、青木が医師であることを知っていたが、おとなしい患者であるように努めた。自分も医師の患者の診療をすることがあるが、専門性では主治医の方が格段に上なので、知ったかぶりはしない。調べれば解決がつく質問で煩わせることをしないようにしようと思った。一方で、CTなど様々な検査を受けながら、医師と患者を隔てる壁は、途方もなく高いと感じていた。

 11月22日に入院。23日は休日のため外出し、家族4人で後楽園ゆうえんちで思う存分遊んだ。幼子2人には青木の入院の意味は分からず、満面の笑みをたたえていた。「また、ここに戻ってこよう」。24日、手術の朝を迎えた。舌の左側の約4分の1を切除し、再建はしない。これまで大病したことはなく、初めての手術だった。       (敬称略)

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