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4歳の時、「男としての自分」に違和感

4歳の時、「男としての自分」に違和感


松永千秋(まつなが・ちあき)東京都生まれ。早稲田大理工学部・浜松医科大医学部卒業。同大大学院修了。米国立保健研究所・ジョンズ・ホプキンズ医科大研究員。浜松医科大医学部精神科講師、附属病院病棟医長、外来医長。日野病院副院長を経て、2012年開業。


第27回 ちあきクリニック(東京・自由が丘)院長
松永 千秋 /㊤

 「性の在り方は、その人の人格的生存そのもの。人格を尊重するのであれば、ジェンダーも尊重しなくてはならない」。精神科医である松永千秋は、性同一性障害を診療の専門に据えている。クリニックの患者の7割は、心と体の乖離に悩み、全国から訪れる。松永は、患者に寄り添い、杓子定規にしかこの障害を捉えられない風潮を変えたいと心を砕く。それは、この障害について、自分が誰よりも知っているという自負に支えられている。

 高度経済成長期、松永は4人きょうだいの次男として、東京都に生まれた。両親が付けてくれた名前は典型的な男児の名前だ。元自衛官の父は厳しい昭和の父親の典型で、4歳上の兄、3歳上の姉、1歳下の弟がいた。自我が芽生えてくるにつれ、自分と他者との違いが気になってくる。

 4歳の誕生日が過ぎ、髪を刈り揃え、真新しい制服に身を包んで幼稚園に通い始めた頃から、違和感を覚えるようになった。男の子はズボンを履いて、トイレはこっち、お道具箱は青色……。姉はおてんばで男勝りの性格だったが、スカートを履いていた。自分もあっちがいいなと思っても、それを言い出させない雰囲気は、幼いなりに感じとっていた。

 小学校に上がると、家族の留守中に姉の服を着て鏡の前に立ってみた。“本当の自分”が映っていた。そのまま自転車で隣町に行き、歩いたこともある。しかし、帰宅後は後ろめたさに襲われた。

 「私は自分の人生を生きていない。今は仮の姿で、いつか望むような生活が送れるようになる」

 流行りのアニメ『リボンの騎士』の男の子として育てられた王女に夢を重ねてみたが、それは決して口に出せない願いだった。1969年、十分な説明を行わずに性転換手術を行ったとして、産婦人科医に有罪判決が下った「ブルーボーイ事件」が世を騒がせた。偶然週刊誌を目にした松永は、「性転換は犯罪」という見出しに衝撃を受けた。

煩悶を科学で解決する道を探る

 自分らしく生きるために、先立つものはお金だと思った。小学6年の夏休み、朝3時起きで新聞配達をしてみたが、新聞の重みに耐えかねて挫折。身長も伸びた中学2年で再開し、月2万円ほどのアルバイト代を手にした。好きな科学の本を買い、旅行資金に充てた。

 一人旅も自立へのシミュレーションだった。海外でのヒッチハイクの体験記を参考に指を立てると、通りすがりのトラックが乗せてくれた。親戚のいる浜松を経由して大阪に行ったり、信州で過ごしたり、高校1年の夏休みには津軽海峡を越えて北海道を巡った。

 高校は早稲田大学の付属校に進学していた。幼少期からの性別への違和感は、第2次性徴を迎えて一層深い悩みとなっていたが、女子がいない男子校にいることは、むしろ精神的に楽だった。

 自分の煩悶に対して、科学によって解決の道を探ろうと考えた。当時は物理学に勢いがあった。ノーベル物理学賞を受賞したシュレーディンガーは『生命とは何か』という本を書いている。同じくノーベル賞物理学者のボーアも相補性の概念を提唱し、精神現象にも物理学の概念が影響することを記している。「物理学を究めれば、自分の内なる不思議な声も解き明かせるのではないか」。揺らぎのない数学や物理の原則にひかれた。内部進学で早大理工学部に進み、量子力学を学び始めた。

 同時に打ち込んだのがボート競技で、理工漕艇部に入部。五輪選手を輩出したこともある名門サークルだ。新聞配達で鍛えた脚力や持久力には自信があった。小学校低学年の頃、父が自宅の庭に鉄棒を据え、息子達に懸垂ができるようになれと命じた。漕艇部でさらに鍛えられ、憧れていた女性らしい物腰とは裏腹に、がっしりした骨格に筋肉も蓄えられたが、一時的なものと割り切った。

 量子力学を学んではみたものの、結局、悩みの解決は与えらないことが分かった。4年生になると、教授に相談した。ストレートに悩みを話すことは憚られ、「生命についてトータルな視点で研究したい」と言うと、師は親身になって2つの道を提示してくれた。1つは大学院で分子生物学を修めること、もう1つが医学部へ入ることだ。

 そこで初めて、医学という新たな可能性に開眼した。とは言え、受験勉強をせず大学に進学しているため、難関の医学部に挑む自信はなかった。そこで4年生を終えた後、生物物理学の教室に移り、生命について深めることにした。大学の成績は良く、1年間は返還義務のない奨学金を得ていたので、親も留年を承知した。

 しかし、生物物理学教室の主要研究テーマは筋肉の収縮のメカニズムで、心の解明にはほど遠かった。本格的に医学部進学を目指し、家庭教師のバイトを始めた。理系科目は自信があったが、国語や社会などは、教え子をペースメーカーに自分も勉強した。

 翌春、浜松医科大学に合格。入学した前年に、既に結婚していた。高校1年で新聞配達のアルバイトを辞めた際に後任だった4歳年上の女性で、道順を教えた縁で親しくなった。憧れの大人の女性で、側にいるうちに大好きになった。

 医学部では、神経内科や脳神経外科など、脳の差異から心と体の乖離を解明することに興味を覚えた。しかし、そうしたアプローチでは、物理学を専攻した際の二の舞になりかねない。グッとこらえ、卒業後は精神科の医局に入局。医師になれば自分が何者であるかの解明に取り掛かれると思っていたが、一人前の医師になるための修行は、そこからがスタートだった。

自ら「性同一性障害」の診断を下す

 精神科の診断は、米国精神医学会が作成した『精神障害の診断・統計マニュアル』が拠り所となる。1980年発行の第3版から「性同一性障害(Gender Identity Disorder;GID)」(小児期)と「性転換症」(青年期以降)が採択された。診断基準として、反対の性に対し、持続的な同一感と自分の(身体的)性に対する持続的な不快感などが挙げられている。87年の改定版では、全てGIDとして統一された。

 松永は自分にその診断を下した。保守的な日本の医局で、自分がそうだと言い出せるような雰囲気は皆無だった。それを専門とする精神科でさえ、公表すれば居場所を失いかねないと思った。(敬称略)

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