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56歳で進行胃がんを郡医師会で公表

56歳で進行胃がんを郡医師会で公表

嶋元 徹(しまもと・とおる)1961年山口県生まれ。88年近畿大学医学部卒業。近畿大学医学部附属病院、昭和病院(現・尼崎新都心病院)を経て、93年から嶋元医院勤務。


第23回 嶋元医院院長、山口県大島郡医師会会長
嶋元 徹/㊤

 「僕は胃がんの進行がんなので、明日手術を受けて胃を全摘してきます」——2017年6月26日、山口県大島郡医師会の席上、会長である嶋元徹が最後にこう切り出すと、20人ほどの医師達は言葉を失った。嶋元は56歳、がんを発症する年齢としては若い。「進行がん」の意味することも明らかだった。嶋元は会場を後にして、入院先の周東総合病院(柳井市)へと戻った。

 瀬戸内海に浮かぶ温暖な周防大島は、常夏の楽園ハワイにも例えられる。ハワイと異なるのは、1976年に本州と結ばれる橋が架かり、往来が容易になったこと。橋は利便性をもたらす一方、人口が流出する道筋ともなり、高齢者が過半数と日本一高齢化率の高い島と言われる。嶋元医院は橋の袂から5分ほど車を走らせた先にあり、島に7軒ある開業医の一つだ。

公私ともに充実した開業医の二代目

 嶋元は当地に医院を構えた父親のもと、2人の姉の下の長男として生を受けた。仕立屋を営んでいた祖父は羽振りが良く、広島の進学校に父を国内留学させ、医師にした。開業医の二代目として、嶋元の運命は生まれた時から決まっていた。子供の頃は反発する思いもあったが、「お前がやらんで、どうする」と言われ続け、渋々勉強し、現役で近畿大学医学部に入学した。

 心臓外科医に憧れたが、医院を継承するとなると、地域医療に直結する専門が良かろうと、卒業と同時に循環器内科に入局。大学病院や関連病院で内科の修業を積み、嶋元医院に戻った時は32歳だった。将来を見据え、自分の思いを込めて診療所を設計してもらい、新築した。

 父もまだ現役だったが、並んで仕事をしているとどうしても喧嘩になりそうで、診察室は一つだけ置くことにした。大島郡医師会会長、周防大島町社会福祉協議会会長などを務めていた父は多忙で、嶋元が休みを取る週1日だけ診察に当たった。

 開業医の厳しさもやり甲斐も、子供の時分から刷り込まれていた。朝起きると、本来は診察室に置いてあるべき往診カバンが居間に置かれていることがしばしばあった。夜半に2回以上、父が往診に呼ばれることは、よくあることだった。「時間外に患者を診るのは地域医療として当然だ」という信念は、この頃から刻まれていた。

 昔ながらの家庭医として、24時間を診療に捧げてきた父のスタイルも患者も、そして責任感も受け継いだ。2007年父の死去に伴って完全に代替わりし、高齢者から子供まで、多い日は外来患者が100人を超えることもある。

 2010年には、父親と同じく、大島郡医師会会長に選出された。会員数37人(当時)と小規模な医師会ながら、山口県では最年少の医師会長だった。月1回の研修会に加え、最大の年中行事となっている大島医学会の開催など、忙しさにも拍車が掛かっていった。

 オフも充実しており、楽しみは主として二つあった。一つが、目と鼻の先は海という土地柄を生かした釣りだ。診療前でも昼休みでも釣り糸を垂れれば、おかずとなる獲物が狙えた。もう一つが、二輪のロードレースだ。危険だからと、大学時代は父に運転を禁止されていたが、こっそりオートバイに乗り続けていた。

 医師になってからも、仲間と連れ立ってツーリングに出掛けた。20年程前のこと、仲間の外科医がロードレースに出場していることを知らされた。興味本位で参戦してみたところ、虜になった。体育会系のクラブ活動はしたことがなかったが、大学時代はウインドサーフィンにのめり込んだ。タイムを競うロードレースの快感はそれに勝った。

看護師の妻は静かに事実を受け止めた

 岡山県に国際サーキットがあり、春から秋のシーズン中は月1回のペースで日曜に公式レースが開かれる。その常連になった。泊まり掛けのイベントで、土曜に13時まで診療した後、バイクを車に積んで出発。翌日曜は朝から予選、決勝と続く。真夏の3時間耐久レースのような過酷な勝負もあり、全身の筋力や心肺機能も求められる。転倒して指の骨を折った経験もあるが、仕事への支障は最小限で済んでいた。2016年までは——。

 翌2017年5月7日、開幕レースが開催された。日頃練習を積んでいるわけではないため、半年以上のブランクがある開幕戦は、いつも以上に疲労が溜まる。レース後1週間ほど食欲が落ち込むのは、例年通りのことだった。6月4日の第二戦を迎えた。レースは完走したが、不調は続き、食べ物を飲み込む際につっかえる感じがした。違和感を抑えられず、患者を日頃紹介している周東総合病院に頼み、上部内視鏡(胃カメラ)検査の予約を入れた。「胃がんか食道がんではないか」と覚悟した。

 6月16日、午前中の外来を終えると、検査に向かった。前日まではびっしり予定が詰まっており、最短の検査日だ。院長として事業所健診は欠かさず受けていたが、胃カメラを入れるのは久しぶりだ。モニターに胃の内部の画像が映し出された瞬間、嶋元は全てを悟った。胃がん、それも進行がんであることが見て取れた。消化器は専門外だが、説明を要しないほど明確な所見だった。

 診察室の担当医は、診断名をはっきりと口にした。ステージは2か3のようだったが、医師同士の会話は最小限だった。「どうしますか」と尋ねられ、「この病院ですぐに手術してください」と即答した。精密検査をしていないので深達度などは明確でなく、“素人判断”ではあったが、がんの顔つきは悪く、根治する見込みはなさそうに思えた。

 できるだけ多くの検査をその日のうちに済ませるには、16時から再開する外来の患者を待たせることになる。自院に電話をすると、看護師でもある妻は、電話口で静かに事実を受け止めてくれた。

 最短で決まった手術日は6月27日で、その前日、午前の外来を終えて入院。心肺機能や心電図など術前の検査を一通り終えた後、大島郡医師会の会場に向かい、参加者に自らの病名を告げた。

 嶋元の父は前立腺がんで亡くなっている。ホルモン療法などで長らく症状が抑えられていたが、最終的に転移して命取りになった。父自身は病名を知っていたが、家族には「誰にも言うな」と厳命していた。当地では一世代前には、「がんであることは身内の恥」という意識が強かったためだが、がんを隠したことが様々な憶測を呼んだ。

 「がんを公表しなければ、仕事を続けられないだろう。腫れ物に触るような状況になれば、社会生活も成り立たなくなる」。腹をくくった。  (敬称略)

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