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癒やしと安らぎの環境賞2017

キャリアを一変させたパーキンソン病

キャリアを一変させたパーキンソン病
橋爪鈴男(はしづめ・すずお)1953年神奈川県生まれ。聖マリアンナ医科大学医学部卒業。同学部皮膚科助教授、2007年社会福祉法人桑の実会入職。介護老人保健施設ケアステーション所沢施設長・管理医師を経て、08年くわのみクリニック院長。

社会福祉法人桑の実会
くわのみクリニック(埼玉県所沢市)院長㊤

 「自分がこの病気になったお蔭で、999人がならなくて済んだ。それだけでも生きている価値があったかもしれない」。約1000人に1人がなるというパーキンソン病。未だ確たる治療法のない神経難病を得て四半世紀、緩やかに進行し活動の自由が奪われる中で、橋爪鈴男はなお患者と向き合うことに生き甲斐を見出し、自らを奮い立たせる。

医師として脂が乗った最中に発症

 1992年、30代最後の年、母校・聖マリアンナ医科大学皮膚科学講師で主任医長となっていた橋爪は、臨床、研究、さらには教育に、医師として脂の乗った時を過ごしていた。

 「緊張しているのか」。ある日の実験中、ピペットを握る右手がカタカタと小刻みに震えていた。悪性黒色腫や有棘細胞がんといった皮膚の悪性腫瘍を専門に研究している最中のことだ。だが、多忙に紛れ顧みることもなく3年が経過した。

 1995年になって、はっきりした異変を突き付けられた。カルテに書いた文章が明らかに段々と右下がりに、字は小さくなっていた。当時のカルテは手書きで、処方箋はカーボン複写するものだ。元来、橋爪は筆圧が強い方で紙に穴を開けてしまうこともあったのに、当時はどうも力が入らず、カーボン紙の下の文字はかすれていた。右手右足には激しい倦怠感があり、無意識のうちに右足を引きずっていた。追い討ちをかけたのは、看護師の一言だ。「先生、おじいさんが歩いているみたい」。

 勤務する病院の神経内科を受診すると、医師は迷うことなく告げた。「典型的なパーキンソン病ですね」。神経変性疾患では、アルツハイマー病に次いで患者数が多いパーキンソン病は、医師には名の知れた病気だ。3年前の橋爪は、「動作時の振戦(震え)だから、パーキンソン病ではないだろう」と、端から否定していた。なぜなら、この病気の典型的な初期症状と言われているのは、安静時に起こる振戦だからである。

 その時に震えの正体を突き詰めていれば、早期治療に繋げられていたかもしれない。今ならば、核医学検査(シンチグラフィー)によって、心筋に分布する交感神経の状態を調べたり、ドーパミン神経の脱落の有無を評価したりして、早期診断が付けられる。しかし、当時は初期CTやMRIであり、脳梗塞などの他の重篤な疾患の可能性を除外するための検査法でしかなく、パーキンソン病の確定診断を下すのは難しかった。

 診断が下された後も、橋爪は「薬を飲めば、症状は出ないのだろう」と、そう深刻に捉えていなかった。パーキンソン病患者の脳内では、運動能力に関わる神経伝達物質のドーパミンが不足しているため、それを補う目的でメネシット®(L-ドパ)やペルマックス®などの服薬を開始した。主治医からは「仕事量は8割ぐらいに制限するように」と言われたが、橋爪は1996年には助教授に昇進し、仕事のペースダウンはなかなか出来なかった。

 聞き分けのいい患者になれないどころか、勝手に薬を増量してしのいでいた。このためウェアリング・オフ症状が顕著に現れ、症状が良い状態(オン状態)と、効き目が弱くなって症状が現れる状態(オフ状態)を1日に何度も繰り返すようになっていた。オン状態では自立生活は出来るが、オフ状態になると動くことすら出来なかった。

 さらに、薬の副作用によって、幻覚や幻聴にも見舞われるようになった。真冬であるにもかかわらず、ゴキブリが蠢くのが見える。幻聴では、見知らぬ人が「謝れ、謝れ」と叫んでいた。甘ったるいにおいがするような幻臭も出現。さらにはCTのような装置で、足の先から頭までを輪切りにされるような、途方もない不思議な感覚に襲われた。ついには、あらぬ妄想が出始めて家族を疑うなど深刻さは増し、運動症状も薬では抑え切れなくなっていた。

 確定診断から9年間、外来や時には入院で治療を受けながら、本院と付属病院での勤務を続けたが、さすがに「退職」という文字が頭をよぎった。

地を這いつくばうような生活に自殺を考える

 橋爪の父方の祖父は医者だった。父は旧制第一高等学校の出身だが、在学中に結核を患って医師の道を断念、東京帝国大学農学部を出て大蔵省専売局(後の日本専売公社)に勤めた。医師になる夢は息子に託された。父は結核で苦労したため、医療への強い不信感と共に、反動からか基礎医学への思い入れが強かった。橋爪は医師になるより遺伝子の研究者になりたかったが、「研究をするにも、医学部に進む方が発展性がある」という父の勧めもあり、1年浪人して開学3年目の新設医大である聖マリアンナ医科大学に入学した。

 橋爪が発症した頃には、父は他界していた。ある意味で、父を悲しませずに済んだ。「退職すれば、築いてきたものが全て崩壊する」と思い詰めていた。そうは言っても、もはや大学病院の助教授という重責には耐えられないほど症状が進行しており、仕事を続けることが無理なのは明らかだった。

 2004年に退職を決めたが、不自由な体やうらぶれた姿を見られたくないと、職場の片付けをするのにも日曜にコソコソと出掛けた。

 職を失った橋爪は、母の家に移り住んだ。日本画家である80代の母は、父の亡き後1人で暮らしながら、忙しく創作に打ち込んでいた。居候をさせてもらう代わりに、食事の支度や家事を手伝った。

 やがて車いす生活になり、夜中にベッドから出てトイレに行くにも、両手を使って這いずりながら前進するしかなくなった。手の力も入らなくなると体を転がし、トイレの前で寝込んだこともある。地を這いつくばうような生活が1年半を過ぎ、無力さに打ちのめされた。「生きる価値のない人間だという思いが日増しに募り、死にたいと願うようになった」。

 外出や医学に接する機会もなくなっていたが、2カ月に1回の脳神経内科の外来受診は続けた。主治医も内服薬だけでは限界だと考え、脳深部刺激療法(DBS)という外科治療を勧めた。心臓のペースメーカーに似た装置を頭の中の視床下核に埋め込み、強度を調整しながら電気刺激を与えるもので、神経核の細胞活動を抑制する治療だ。

 橋爪は効果に半信半疑だったが、異を唱えず、むしろ積極的に手術を受け入れた。治療後は、立ち上がって二足で歩き出す力が戻り、車いすが不要になった。素直に喜び、頑なに凍っていた心も少し溶けかけてきたが、医師の仕事に復帰する日が来るとまでは思えなかった。(敬称略)


【聞き手・構成/ジャーナリスト・塚崎朝子】

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