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「糖質制限食の伝道師」の原点

「糖質制限食の伝道師」の原点
江部康二(えべ・こうじ)1950年京都府生まれ。74年京都大学医学部卒業。同大結核胸部疾患研究所入局。78年高雄病院医局長、副院長を経て、2000年理事長。『江部康二の糖質制限革命』など著書多数。

一般財団法人高雄病院(京都市)理事長
江部 康二/㊤

 「何じゃ、こりゃあ」。江部康二は我が目を疑った。2002年6月のこと、前夜に測定した食後血糖値は「240mg」を超えていた。睡眠時無呼吸症候群が話題になっていて、1泊入院して睡眠ポリソムノグラフィー検査を受けた。ついでにと、軽い気持ちで夕食後の採血をした結果だった。翌日は、昼食にいつもの胚芽米の代わりに玄米を食べて試した。今度こそと再度食後に採血したが、やはり「220mg」という高値が出た。HbA1cは「6.7%」。呆然自失とはこのことだった。

 今でこそ「糖質制限食」の伝道師として名高い江部だが、糖尿病の専門医ではない。しかし、漢方を専門としてプライマリケアの診療をしており、糖尿病患者も診ていた。その値の示すところは、すぐ分かった。両親ともに糖尿病を発症していたが、52歳にして自分の番がやってきた。

 江部の父は東京出身の外科医で、太平洋戦争中は広島県北部の樽床ダムを守る部隊の軍医だった。1945年8月6日、原子爆弾投下。その朝、広島駅近くで畑仕事をしていた広島県立高等女学校の若い女性教師は被曝して火傷を負った。親戚がトラックで運んだ戸河内町の姉の自宅で火傷の手当てをしたのが父で、女性教師は後に江部の母となる。

 50年生まれの江部は被曝2世になるが、元来とても健康だった。父が広島市内で内科医院を開業したため、広島で育った。父を見て、医師の仕事は自由度が高そうと感じていた。2歳上の兄とは幼稚園から高校まで同じ道を歩き、兄が京都大学医学部に進学すると、自分も後を追った。74年に医学部を卒業、附属の結核胸部疾患研究所(現・京大呼吸器内科)に入局。病院実習で回った時に先輩医師達が優しそうだったからだ。

健康で運動に励み多飲多食の日々

 一足早く医師になった兄は麻酔科・泌尿器科に進んだ。学生時代、医学部でも大学紛争が盛んで、江部も兄も学生運動の闘士だった。ゲバ棒を振って全共闘運動に熱心だった兄は、就職先を探すのに苦労し、知り合いの伝手を頼り入職したのが高雄病院だった。元は結核病院で戦時中は陸軍に接収されていたが、戦後、内科病院として再スタート。兄は西洋医学の権威に対抗意識を燃やして、東洋医学を猛勉強して、漢方医になった。

 江部の方は医局のルートに乗り、母校で研修を終えた後は、助手となり関連病院への赴任が内定していた。ところが、3人しかいない高雄病院の常勤医師の1人が病に倒れ、母が「助けてやって」と江部に泣きついてきた。79年、医局人事が発令される直前、江部はまたも兄に合流した。

 結核こそ不治の病でなくなったが、呼吸器には肺がん、喘息、肺線維症など難治疾患があり、西洋医学だけではすっきりいかない所を漢方が補ってくれるだろうと、自分も漢方医学に打ち込んだ。

 西洋医学の治療では不十分な疾患を抱える患者が来院。とりわけアトピー性皮膚炎に苦しんでいる患者が多く、漢方と食事療法の組み合わせで治療に当たった。当時はステロイド剤の副作用がことさらに槍玉に上がっており、一時は江部も脱ステロイド療法に傾きかけたが、その有用性を再認識し、途中から併用しつつ、減量を目指す方向に切り換えた。「アトピー学校」という患者教室を立ち上げ、入院治療時に自己管理が出来るように患者を指導した。

 仕事だけでなく、オフも充実していた。学生時代は野球部に入っていたが、医師になってからはテニスを始めた。週1〜2回はボールを追い掛け、週1回はスポーツジムに通った。汗を流しては、大いに飲み、かつ食べた。と言っても、玄米飯に野菜・魚は多め、油は控えめというスタイル。酒はビールの後、純米大吟醸酒を毎日のように飲んだ。中学時代からアレルギー性鼻炎があり、飲酒すると少し症状が悪化したが、健康面で問題はなかった。風邪一つ引かず、休診したこともない。

ターニング・ポイントだった40歳

 そう、40歳までは——。学生時代と同じ167cm、57kgの体型を維持し、太れないことが悩みの種であった。40歳からは仲間達と趣味のバンド活動も始め、ボーカルとして毎月第3金曜夜にはライブハウスの舞台で、ビートルズから尾崎豊の歌まで熱唱した。バンド名の「ターニング・ポイント」は年齢的に人生の節目かなという意味で命名した。

 それは本当に節目の年だった。定期的に運動をして、食生活にも気を配っているのに、その年から徐々に体重が増え始めた。下腹がせり出して、子持ちシシャモのような体型になってきたのだ。10年かけて10kgほど増えた。血圧も同じく右肩上がりだった。以前は130〜140/80mmHgを維持していたのが、52歳時、普段でも150/90〜96 mm

Hg、外来後に計ってみると180/110 mmHgにまで上昇。コレステロール値は正常だった。

 年1回の健康診断は、きちんと受けていた。40代後半には、空腹時血糖は109mmHgとギリギリ正常範囲を保っていた。しかし、上がり続けていることには変わりはなく、もし食後に測定していたら200mmHgぐらいになっていたはずだ。

 52歳で、糖尿病の動かぬ証拠を突き付けられたわけだが、思い当たることはたくさんあった。20代と40歳の時点で体重こそ変わらなかったが、筋肉量は低下していたはずで、その分、脂肪が増えていたにすぎなかった。基礎代謝量は坂を転げるように落ち、メタボリックシンドロームに突入した。「病気が一気に開花して、おかしいなと気付いた。健診では空腹時血糖値とHbA1cだけしか調べないから、見過ごされてしまう。俺も馬鹿だった」。

 困惑した自分を救ってくれたのは、結局、兄の始めた糖質制限食だったと言える。そして、そこには自らの絶食体験も生きてくる。江部は84年、34歳の時から断食を繰り返しており、アトピー性皮膚炎でも食事療法に注目したのはそのためだ。

 最初のきっかけはその年、核ミサイルを積んだ米原子力潜水艦が米軍佐世保基地に入港したことに抗議し、京大の学生がハンガーストライキを行ったことだ。メディカルチェックを頼まれた江部は、断食療法を参考にすればいいと思い立ち、学生は断食開始から22日目にCPK(クレアチンキナーゼ)が上昇し、脂肪に替わって蛋白質が燃え始めた時点でストップをかけ、重湯から徐々に普通食に戻していった。断食療法を調べる過程で、効用が多いことを知った。そこで3日ぐらいの断食を体験してみると、その間は鼻炎が止まった。それから毎年のように年1回程度の断食をしていた。   (敬称略)


【聞き手・構成/ジャーナリスト・塚崎朝子】

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