SHUCHU PUBLISHING

病院経営者のための会員制情報紙/集中出版株式会社

未来の会

自らの経験を基に依存症治療法を考案

自らの経験を基に依存症治療法を考案
河本泰信(こうもと・やすのぶ)1960年岡山県生まれ。岡山大学医学部卒。慈圭病院、岡山大学医学部附属病院、県立岡山病院医療部長・院長補佐、国立病院機構久里浜医療センター精神科医長などを経て、今年5月から現職。著書に『「ギャンブル依存症」からの脱出』。

よしの病院 精神科専門医
河本泰信/㊦

 2009年2月の最後の金曜日、勤務中であることもお構いなしに、妻は河本の携帯電話を鳴らし続けた。凄まじい剣幕で病院受診と入院を迫り、抗えそうにもなかった。

 とはいえ、精神科医である自分が、妻に付き添われて精神科の門をくぐるような、みっともないことは断じて出来ない。それぐらいなら、自ら断酒する道を選んだ方が余程ましに思えた。

 「アルコール依存症の専門医が断酒を続けたら、それがかえって名誉になるかもしれない。損得計算も働いた」

 病院へ行く代わりに空いた日に自助グループに参加したいと妻に申し出たが、「今日行きなさい」と譲らなかった。自助グループの会合は毎日のように各地で開催されているが、あいにく金曜日に岡山で開催される会合はなかった。最も近いのは神戸だった。「新幹線代なんか、あなたの飲み代に比べたら安いものよ」と、妻は言い放った。

自助グループ参加と学究活動で充足感

 医者生命どころか人生まで終わりそうな悲壮な決意で新幹線に乗り込み、勇気を振り絞って自助グループの扉を開けた。そこで「ヤス」と名乗った。酒を飲み始めたきっかけ、両親にかけた迷惑、傷付けられた前妻の悲しみ、友人や同僚達にかけた迷惑、途方もなく嫌な気分……。あっけらかんとした場の雰囲気に心を開かされ、酒害の数々が堰を切ったように口をついて出てきた。

 その晩から酒は1滴も口にせず、週1回の神戸通いが始まった。当初の緊張感は消え、30年近い酒害体験をとめどなく吐き出した。少し余裕が出てくると、自分を含めて参加者達は、他人の話はほとんど右から左へと聞き流していることに気付いた。いかに自分の“武勇伝”を盛り上げるかに熱心で、酒飲みの大言壮語と似ていた。それでも、同じ経験をした人に聞いてもらえることは、ありがたかった。

 今の妻に対する非道な仕打ちについても話した。不思議なことに、話せば話すほど、達成感が湧き起こった。自己をアピールし、それを受け入れてもらえる。情けない話であるが、それで承認の欲求が満たされるのは被虐的だ。フロイトの弟子であるメニンガーは、アルコール依存症などを無意識の自己破壊傾向の発露と捉えて、「慢性自殺」という概念を提唱した。そこにはマゾヒズムがあるが、飲酒に替えて、それも充足された。

 肝心の断酒では、最初のうち、手先の震えなどの禁断症状に見舞われた。夜は酒なしに寝付けない。睡眠薬に頼ろうかと考えたが、1カ月半を過ぎると、徐々に自然な眠りに落ちることが出来るようになった。

 つらいのは、出張時だ。自宅では妻の目もあるので、酒に手を出さずに済ますのは比較的容易だ。ところが、ホテルの部屋の冷蔵庫はミニバーになっており、アルコール飲料で満たされている。おまけに部屋には自分一人きり、酒に手が伸びる衝動と闘わなくてはならなかった。結局、睡眠薬を処方してもらい、出張の折は、夕食後すぐにそれを服用するようにした。

 断酒する2年前ぐらいから肝機能にも影響が出ており、γ-GTP値は3桁になり、あと数年で肝炎の域に入るだろうと他人事のように考えていたが、断酒と共に正常化した。

 このように「アルコール依存症」という診断名こそ正式には付けられていなかったが、専門医である自分にはもう否定しようのない診断であった。

 断酒を始めて半年経った頃、日本におけるギャンブル依存症医療の草分けである北海道立精神保健福祉センター所長の田辺等医師の推薦で、ギャンブル依存症に関する執筆の機会を得た。「初期診断から洞察的精神療法へ」という小論が専門誌に掲載された。活字になった名前を見るのは誇らしかった。続く日本嗜癖行動学会での「対人援助職と依存症」という演題発表には、自らの症例も盛り込んだ。

 そして、このような論文執筆や学会発表によって、飲酒以上に充足感を得られることを発見した。医師になって20年、精神科の臨床に励みながら、学究活動とは縁が薄く、学位も取得していなかった。

 「飲酒酩酊時には、自分にはこんな凄いアイデアがあるのに、なぜ誰も注目してくれないのだろうとくすぶっていた。満たしたかったのは、こうした名誉欲だった」

 それから今日まで、8年の間に英語論文5編を含む30編弱の論文を仕上げた。「お父さん、お母さん、僕を見て凄いと言ってよ」と、常に親に目を掛けてもらうことを意識して育った河本の本性は、50歳近くになっても何ら変わっていなかった。ただ、酒以外で欲望を満たす術をやっと身に付けただけである。

欲望充足メソッドで患者を治療する

 仕事では、アルコールなどの物質、ギャンブル依存症などの非物質の依存症の治療に、これまで以上に熱心に取り組んだが、診療方針は大きく変わった。かつては依存症の診断を下すと、自助グループへの参加を熱心に勧めていた。しかし、患者がその扉を開けるハードルが極めて高いことを身をもって知った。しかも、医学的治療を二の次にして丸投げしていたことを猛省した。

 そこで、自身の体験に基づき、「欲望充足メソッド」と名付けた独自の治療法で、患者と向き合うことを試みるようになった。「飲酒で満たしたかった欲望は何か」を尋ね、それを充足させるため、患者や家族が望むことを探す手助けをしている。目的とすべきは、断酒ではなく、飲酒に替わるものを見つけることだ。

 この治療が誰よりも奏功した例が、河本自身だ。15年に治療法を書籍にまとめた際は、後半に自分の歩んできた道を赤裸々に綴った。

 「治療者が、どういう人生観と経歴で向き合っているかを伝えない方法は押し付けにすぎない」

 13年から国立病院機構久里浜医療センター(横須賀市)に勤務していたが、16年、岡山時代に研修医が症例を使い回していたことに連座する形で、精神保健指定医の取り消し処分を受けた。しばらく、この世から消え去りたいほど打ちのめされたが、気持ちを切り換えた。不思議と飲酒欲求は出なかった。久里浜を辞して、よしの病院(東京・町田市)に移り、己の信じる治療を患者に施している。

 神戸の自助グループに3カ月通った後、岡山を経て、神奈川に転居した今も地域のグループに籍を置く。出席は年数回だが、自助グループのメンバーだということは常に心しておきたいからだ。

 断酒後、2人の子供に恵まれた。子供は心底かわいいと思え、命と引き替えにしても守りたい存在だ。しかし、子供の成長に充足感を求めることはしたくない。

 「学究活動は楽しいが、能力には限りがあるので、いずれ潮時が来るかもしれない。そうなった時にまた欲望を満たす別のものを見つければいい」


【聞き手・構成/ジャーナリスト・塚崎朝子】

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

COMMENT ON FACEBOOK

Return Top