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アル中医師がアル中患者を診る

アル中医師がアル中患者を診る
河本泰信(こうもと・やすのぶ)1960年岡山県生まれ。岡山大学医学部卒。慈圭病院、岡山大学医学部附属病院、県立岡山病院医療部長・院長補佐、国立病院機構久里浜医療センター精神科医長などを経て、今年5月から現職。著書に『「ギャンブル依存症」からの脱出』。

よしの病院 精神科専門医
河本泰信/㊤

 「アル中が、アル中患者を診て恥ずかしくないの」と、電話越しに詰られた。精神科医として県立病院の要職にありながら、自らもアルコール依存症を抱えていた河本泰信医師(現・よしの病院勤務)を回復の道に招き入れたのは、その1年前に再婚した妻の一喝がきっかけだった。

 河本が飲酒を始めたのは、医学生になってからだ。元来が対人関係に緊張しがちだったが、同期生とのコンパで酒が入ると、かせが外れたように打ち解けられ、酩酊が楽しいと感じた。前期の成績はほぼ「優」で通り、そこで緊張感が途切れたのか、家飲みが始まった。酩酊して正体がなくなる(ブラックアウト)まで飲むようになった。

 生家は青果の小売商で、婿養子だった父は不本意な仕事をしているとの思いを抱えて、毎晩のように酒を飲んだ。外で飲み、玄関先で眠り込んでいることもあった。知人宅で酔って寝込んだ父を母と迎えに行き、父を支えながら歩く母の後を、妹とトボトボと歩いた記憶もある。日頃は気難しい父が、酔いと共に機嫌が良くなるのは、子供には歓迎すべき姿と映った。挫折感が強かった父は、人生の雪辱を果たしてもらうためか、長男である河本の教育に熱心だった。中学時代は毎週末、往復7時間の道のりを、大阪にある進学塾まで送迎してくれた。「成績は悪くなかったし、勉強さえしていれば、うるさく言われることはなかった。頑張って勉強してもらおうと、両親の仲や同居していた母方の祖父母との関係も良くなる。勉強は現実逃避の手段だった」と河本。

 人命を救う道は世間体が良さそうだとの理由で医学を志し、県立の進学校から岡山大学医学部に合格。それまでの圧迫感から逃れ下宿を始めた河本は、解放感に浸った。父が酒を強いることはなく、飲酒は大学入学後に習慣付けられたものだ。アルコール依存症の親など、機能不全家庭で育ち、成長してもなお内心的なトラウマを持つケースは、「アダルトチルドレン(AC)」と呼ばれる。河本は紛れもなくACだった。

酩酊をエネルギーとして生きる

 「酒を飲むことで、緊張感と圧迫感が弾け飛ぶ。こんな良い物がこの世にあったのか、他の人達がほどほどで切り上げるのが、不思議だった」

 学生のアルバイトで買えるのは、当時最も安かった「サントリーレッド」止まり。それでも週3日は飲み、多い日は760mLを一晩で空けることもあった。後期に入って起こってくる“九月病”は、いわば無気力症候群で、五月病より厄介だとされる。そこに河本の場合は、アルコール依存症が加わった。

 悪酔いで起きられず登校出来ない日が続き、それが両親に知れて罵倒されたが、せいぜい1週間禁酒するのが関の山。さらに2年目には、“引きこもり”になった。昼は家で寝て、夕方になるとゴソゴソ起き出して、反原発や反基地闘争の集会やデモなどに参加した。結局、通常の倍の4年をかけて、ギリギリの年限で教養課程を終え、医学専門課程に進学した。両親には、酒を控えて進級していたと嘘をついていたため、本来の最終学年になると、しつこく将来のことを尋ねられた。泥酔して父親を突き飛ばして、その後1年間ほど音信不通になった。幸い国立大学の授業料は安かった。塾講師など割の良いアルバイトもあり、学費も賄えた。ある病院が設けた安い寮に移り、何とか生活も出来た。

 専門課程は1年留年しただけで、5年で終えた。結局9年かけて1988年に医学部を卒業。医師国家試験は、合格後の大量飲酒を楽しみにエネルギーを集中させて合格した。自分の生い立ちもあり、自己探求の手段として精神科を専門に据えた。

 「親から受けた期待への反発と後ろめたさとの葛藤、そして酒への依存の背景を見極めたかった」

 医局から派遣された岡山市内の慈圭病院で研修を受けた。アルコール依存症と診断された患者に多く出会い、院内で週1回開催されている断酒会にも治療者として参加した。アルコール依存症について知識はあったが、酒が切れると、手が震え幻覚が出るといった極端な臨床像を描いていた。勉強ができて国試も通って病院勤務もし、メリハリを付けて飲んでいる自分はアルコール依存症ではないと考えていた。しかし、断酒会で聞く患者の話は、どこかで自分と一緒だと感じていた。アンビバレンスな思いだ。もし、自分も病気であるならば、酒を手放さなくてはいけない。酩酊をエネルギーとして生きてきた自分は、今後何を支えに生きればいいのか。

 医師になってすぐ、最初の結婚をした。子供はいないながら円満な家庭生活だったが、酒量を抑える理由にならなかった。酒をやめるなど論外だ。飲み会や宴会がない日は、家で飲んだ。「欠勤すればアル中」と勝手なルールを定め、アルコールが抜けきらない日も、仕事を休むことはなかった。もう一つ、「自覚しているうちは、アルコール依存症ではない」という強弁もあった。

 アルコール臭はしていたはずだが、同僚達から面と向かって非難されることもなく、唯一、「ほどほどにしろ」と助言してくれる先輩医師がいた。案じる妻は「アル中だから、先輩の先生に相談に行こう」と持ち掛けたが、「そんなことをして、仕事が出来ないようになったら、どうするんだ」と一蹴した。

 妻の離婚宣言に、これ幸いと乗った。離婚後の妻の生活費を負担してでも気ままに酒を飲み続けたいと、19年間の結婚生活に終止符を打った。

 一方で、患者の断酒の手助けをしたいという欲求は強くなり、河本は押し付けがましいほど熱心なアルコール依存症の治療者となり、患者に断酒会や自助グループを勧め、「挫けるな」と叱咤激励した。

再婚した妻の堪忍袋の緒が切れた

 県立岡山病院(現・岡山県精神科医療センター)医療部長を経て、依存症ユニット担当の院長補佐になった。その後、2度目の結婚をした。再婚した妻は自分の依存症に関する研修会に参加したこともある看護職だった。酔うと道路に寝る面白いおじさんという認識で結婚した妻が、許容限度を遙かに超えていることに気付くのは、時間の問題だった。半年もすると、前妻と同様に、酒量について口うるさく言い始めた。妻が流産して辛い日にも飲んだくれて帰り、かわいがっていた鳥が死んだ日も飲み続け、妻の堪忍袋の緒が切れた。その翌日、いつも通り出勤した河本の携帯電話は、妻からの呼び出しで鳴りっぱなしだった。冒頭のように罵声を浴びせられた。「今から私が、精神病院に連れて行ってあげる」。その日ばかりは、剣幕は収まりそうになかった。(敬称略)


【聞き手・構成/ジャーナリスト・塚崎朝子】

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