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開業3年目に白血病を突如発症

開業3年目に白血病を突如発症
成彬(もりやま・なりあきら)1947年福岡県生まれ。東京大文学部卒業後、TBS勤務。2年後に退職し、九州大医学部を経て精神科医、小説家(筆名:帚木蓬生)に。『三たびの海峡』(吉川英治文学新人賞)、『逃亡』(柴田錬三郎賞)、『水神』(新田次郎文学賞)など著書多数。2005年に同県中間市で精神科・心療内科を開業。

メンクリ院長
森山成彬/㊤

 医者冥利に尽きる。2017年1月、精神科医・森山成彬は、70歳の誕生日のサプライズに目を潤ませた。回復の道を歩む、かつての患者達から「感謝状」を送られたのだ。「先生は私達依存症者に希望と仲間と回復の道を与えてくれた。ありがとうございます」。“日曜作家”、帚木蓬生(ははきぎほうせい)として、長らく二足のわらじで歩み続け、いくつかの小説で賞を受けているが、人生初の感謝状だった。

 振り返ると、“この日”を迎えられないと思えた日々があった。開業して3年目の2008年夏、突然の白血病を宣告されたのだ。

 05年に開業したメンタルクリニックは、医師1人、加えて常勤職員2人のささやかなクリニックだが、毎年スタッフの健康診断を行っていて、午後が休診の水曜日に森山自身も血液検査を受けた。週末には職員旅行を予定しており、何の自覚症状も前触れも無かった。

 一晩明けて木曜日、検査会社から急を告げる電話がかかってきた。森山の血液像が異常で、血液内科の受診を強く勧められた。「献体を取り違えているんじゃないの」と冗談めかしてはみたが、事は深刻だった。異常な白血球が増えて、赤血球も大幅に減っているという。

 金曜日には予約患者に延期の断りを入れて、最寄りの総合病院を受診すると、その足で入院、無菌室への入室が決まった。淀み無く「急性骨髄性」の診断が下った。血中に正常な好中球はほとんど無く、血小板も底を付いているなど、病勢が急を要していることは明らかだった。

 職員旅行どころではない。神戸で講演会も予定していたが、全てドタキャンするより無かった。

 治療には数カ月を要するため、自分を頼りとしている患者達への対応は、何より懸案事項だった。精神疾患を抱えている患者達は、ただでさえ動揺しやすい。閉院という選択肢もあったし、そうしないとしても転院先を決めなくてはならない。

患者に対して自らの病名を開示

 地域の精神科仲間と20年来続けている勉強会があり、気の置けないメンバーにまず相談することにした。九州大学の同門でもある伊藤正敏医師は、衝撃を受けたようだが、状況を飲み込み「俺達が1日置きに交替で何とかする」と、請け合った。

 森山の妻は、専従者兼看護師でケアマネジャー資格も持っており、総務主任と共に、主のいないクリニックを守る要となった。翌週の火曜日から、仲間達が入れ替わり立ち替わり、代診を務めてくれることが決まった。

 最大の決断が、患者に対して病名を開示するというものだ。受付前の告知板に「私は急性骨髄性白血病で、数カ月間の入院加療中は、信頼する仲間の先生たちが診療で来るので、これまで通り受診し続けてください」と大書した。さらに、職員達には「俳優の渡辺謙さんと同じ病気だから、心配は要らない」と、言い含めてもらった。

 作家業は、陸軍軍医のトップとなりながら旺盛な作家活動を展開した森鷗外の時代から、古典的な医師の兼業かもしれない。割合が高いのは精神科医だが、中でも森山の経歴は異色だった。

 1947年、筑後地方の福岡県小郡市に憲兵だった父の二男として生を受けた。勉強は万遍なく得意で成績は良く、幼い頃から剣道にも打ち込み心身を鍛えた。

 東京大学に入り文学部で仏文学を専攻したのは、小説家への憧れからだ。69年に卒業すると、社会の問題をあぶり出すジャーナリストを志して東京放送(TBS)に入社した。ところが報道の左傾化に端を発した成田事件によって報道局が縮小され、バラエティー番組の担当となった。周りには40歳を過ぎると閑職に回る先輩達もいた。森山は早々に放送業界に見切りを付け、次なる道を模索した。

 医師は、生涯の仕事として不足は無い。元は理科系だったので、数学などの試験科目も苦にならず、3年目に会社を辞すると、約10カ月の受験勉強で九大医学部に合格し32歳で医師免許を得た。

 精神科を選んだ背景には精神医学が盛んなフランス留学への思いがあった。さらに、医学生時代、人体解剖実習に触発された『頭蓋に立つ旗』が最初の受賞作(第6回九州沖縄芸術祭文学賞)となったことが、医業を続けながら執筆も出来そうな診療科を選ばせた。九大には、戦時中に米軍捕虜を生きたまま解剖し殺害した事件などもあり、「医学界には魅力的な小説題材が転がっている」と感じた。

 入局2年目に、念願のフランス留学を果たした。大学病院や市中の病院でアルコール依存症の患者を診るうち、合併して起こるギャンブル依存症と向き合わざるを得なくなった。まだ疾患としての認知度が低かった時代から、手探りで診療に取り組んだ。

 並行して、医学に留まらず広くテーマを探り、丹念な下調べと鋭い人間観察に基づいた、ヒューマニズムに溢れる意欲作を次々と世に送り出し、作家としての地位も確立した。

患者達から寄せられた励ましの手紙

 年に1作と定め、毎朝4時からの2時間を執筆に当てる日課は、開業後も変わらない。「小説を書いていると、診療は手を抜いているとみられがちだが、決してそんな医者にはならない」。医学論文も多数執筆し、臨床も誠心誠意取り組んだ。

 入院時点では1日30人の患者を診ており、小説のテーマも7年先まで決まっていた。

 白血病の治療に専念出来る環境は整いつつあった。勤務医時代に心を病んだ医師を何人も担当して、生半可な知識による不遜な態度に悩まされた。その経験から、主治医に全幅の信頼を寄せた。

 白血病は、タイプによっては薬が著効を示すようになり、造血幹細胞移植のような治療法も開発されて、むしろ治しやすいがんになった。しかし、森山は発症時点で60歳を超えていたため、主治医の「生死は五分五分」という言葉に心が乱れた。それでも、「半々なら見込みがある。代診を務めてくれる医師達や患者のために絶対に生きて戻らなくてはいけない」と使命感を募らせた。

 病名を開示したことで、患者の反応も概ね良好だと、妻から聞かされた。「今はいい治療法があるので、落ち込むことはないですよ」「自分の知り合いもこの病気で、今はピンピンとしています」。そして、「これは神がくれた休暇です」と、患者から多くの手紙が寄せられた。(敬称略)


【聞き手・構成/ジャーナリスト・塚崎朝子】

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