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がんになって得たものは〝悟り〟

がんになって得たものは〝悟り〟
利博(いの・としひろ)1951年群馬県生まれ。77年順天堂大学医学部卒業。同学部小児科学教室入局。2000年いのクリニック開院。熊谷市医師会附属准看護学校校長などを歴任。現在、群馬パース大学保健科学部客員教授・評議員、同市医師会看護専門学校校長。

医療法のクリニック(埼玉県熊谷市)理事長・院長
利博/㊦

 地域に根差して開業し、順調にクリニックの経営を拡大し、社会活動も続けてきた井埜利博医師は、突然、悪性リンパ腫、それもステージ4の宣告を受けた。かかりつけ医が病に倒れれば、患者への対応や自院の行く末にも真剣に思いを巡らせなくてはならなくなる。

 2015年9月に群馬県立がんセンターで受けた精密検査で既に骨盤にも転移があることが分かったが、悲観はしなかった。熱もなければ、痛みも無かった。濾胞性リンパ腫は悪性には違いないが、悪性度は低く、はっきり自覚出来るのは、原発病巣である左頸部のしこりだけだった。

 著効があるとされるリツキシマブを中心とした化学療法は、まず入院でスタートし、第2クールからは週1回外来に通って受けることになった。

 体調と相談しながらなら診療は続けられそうだったが、妻の助言に従い、全て代診に任せることにした。客員教授を務める群馬パース大学での講義、熊谷市医師会理事の公務、校長である同附属准看護学校の講義も全て休職した。

家族らの代診で治療に専念

 治療に専念出来たのは、娘とその夫である義理の息子が、クリニックの診療を肩代わりしてくれたからだ。母校・順天堂大学の後輩の女性医師も、井埜と専門が同じである小児循環器内科の治療を引き受けてくれた。

 こうしたバックアップで、患者はもちろん、スタッフにも大きな動揺は無かったようだ。年の瀬の忘年会には出席して、スタッフを前に自分の病名を伝え、「息子が中心でやっていくから、よろしく頼む」と告げた。

 井埜には娘が2人いるが、医師になったのは次女だ。親の背中を見て育ち、迷うこと無く医学部に進み、小児科とつながりの深い産婦人科医になった。次女は今も病院勤務だが、内科の勤務医だった夫は井埜の闘病をきっかけに軸足をいのクリニックに移し、副院長になってくれた。

 抗がん剤の副作用は比較的軽いとはいえ、それなりにあった。まず、頭髪が全て抜けてしまった。女性であれば、かつらなどを考慮したかもしれないが、元が豊かな黒髪というわけでもないので、そのままにすることにした。頭髪だけでなく、まつ毛や眉毛まで抜けてしまい、顔つきにすごみが出てきた。

 化学療法を開始した当初が、一番辛い時期だった。点滴を受けた日は怠さに耐えかね、帰宅後は終日伏せて過ごした。制吐剤や頭痛薬も必要で、手の先にも痺れが出た。しかし、回を重ねるごとに徐々に副作用は軽くなり、治療当日以外は日常生活に支障が出るほどではなかった。

 閉口したのが痔だった。白血球が減少したためか、傷が治りにくくなり、感染個所が悪化した。白血球を補ってもらおうと、主治医に頼んでG-CSF剤を打ってもらった。痔の方はいよいよ専門医にかからなくてはいけないと思いかけた頃、抗がん剤投与が終わり、自然に回復していった。

 自宅療養中、全く診療を行っていないわけではなかった。新しい環境で奮闘している娘婿の負担を少しでも軽くしたいと、自院に併設する有料老人ホームへの訪問診療だけは続けていた。軽く息切れがしたが、何とかこなせた。

 市医師会長には病気のことは直接伝えたが、見舞いは固辞した。闘病している姿を見られるのは嫌だったし、遠からずの回復を信じていたからだ。見舞いに来たのは、ごく限られた親族だけだった。

 患者として関わる医療は、やはり別物だった。自宅療養中は、体調の良い日も取り立ててすることがなく、手持ち無沙汰だった。そこで、まず病気について徹底的に知りたいと思い、文献を調べまくった。そして、日々の治療の経過や医学的所見を日記として書き綴った。「ただテレビ見ているだけでは仕方ない。同じような病気の人の役に立てばいい」。何冊か専門書は書いているが、闘病記はもちろん初めて。電子出版で公開することにした。

 6クールの化学療法が終わったのは、2016年3月のこと。確定診断から半年が経過しており、PET-CT検査を受けると、がんはきれいに消えていた。それでも十分な吉報だが、井埜は、悪性リンパ腫の感度の高い二つの腫瘍マーカーを調べてみることにした。高額な検査のため、主治医は見合わせたようだが、内緒で自院で採血したところ、どちらも見事に下がっていた。“無罪放免”となるのは、もう少し先だ。ここから2年間、維持療法として14週おきのリツキシマブの投与が続くのだ。

患者へのがんの告げ方にはより配慮

 井埜が外来を再開すると、大半の患者は病気のことを知っていて、「お大事にしてくださいね」と、帰り際に声を掛けてくれた。自分を待っていてくれた患者とまた向き合うことは嬉しかった。

 以前から患者にはソフトな物腰で接していたので、それは変わらない。ただし、がんを発見した場合の告げ方には、より配慮するようになった。

 半年ぶりに往診にも本格的に復帰した。診療をサポートするのは前述の次女夫妻が中心だが、経営の面は妻が頼みだった。井埜の妻は医療職では無いが、介護事業の会社を立ち上げ、有料老人ホームだけでなく、東松山市では認知症のグループホームも運営していた。妻が運転する車に片道20分揺られながら、日常が戻ってきたことを実感した。

 娘婿の方針で入院が減ったことが影響し、クリニックの患者は少し減っていた。15年末、スタッフに十分なボーナスを出せそうもないと、日本政策金融公庫から借り入れをした。後継者が決まっているからこそ、借金することも出来るのだ。

 夕食時の晩酌も病前の2合にまで戻り、食が進んだ。化学療法を続けても、体力が回復したこともあり、帰宅して寝込むようなことは無くなった。

 死と背中合わせのがんという病気になって得たものは、“悟り”かもしれない。

 「遅かれ早かれ、いずれ人間は死ぬ。少し早く死と直面して、死に支度を考えるようになった」

 自分の最期の時、妻は、クリニックは、そして自分はどこで過ごそうか……思いは巡る。

 がんから生還しても、生活習慣病が命取りになれば、元も子もない。血圧、尿酸値もHbA1c値も高めなので、薬で抑えている。朝食は果物だけ、夕食のご飯も1膳だけに制限されている。中学時代から数えれば半世紀の付き合いになる妻には、頭が上がらない。がんのリスクも消えたわけではなく、一度がんになって治療で免疫力が落ちると、二次がんとして他のがんも発症しやすくなるため、その点も注意しないといけない。

 2016年、初詣で引いたおみくじは「凶」だった。妻の勧めでもう1回引いたが、またも「凶」。さらにもう1回、“三度目の正直”で「大吉」が出て安堵した。2017年は参る神社を変えてみたものの、あろうことか「凶」「凶」「大吉」という同じパターンだったが、妻と苦笑いする余裕があった。

 完全復活したら闘病記も加筆し、少なくとも東京五輪の頃までは一線で診療を続けるつもりだ。


【聞き手・構成/ジャーナリスト・塚崎朝子】

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