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「執刀をしない外科医」として復帰

「執刀をしない外科医」として復帰
丹野隆明(たんの・たかあき)1957年札幌生まれ。82年千葉大学医学部卒業。1990年松戸市立病院整形外科医長、99年同病院整形外科部長、2009年松戸整形外科病院脊椎脊髄センター長、12年同病院副院長。

戸整形外科病院 副院長・脊椎脊髄センター長
隆明/㊦

 「もう一度あの朝から人生を再スタートできたら」——。健康そのもので仕事も順調、精気にあふれていた整形外科医、丹野隆明は、2008年2月22日朝、高血圧性脳出血に倒れ、左半身が麻痺。重度の身体障害者(2級)として、不自由な生活に直面しなくてはならなくなった。

両手で手術を行っていたことが幸い

 丹野は左利きだが、子供時代、習字が出来るよう、書字だけは右手を使うよう訓練されていた。それ以外は、箸を持つのもメスを握るのも左手だった。東京湾岸リハビリテーション病院でのリハビリは、まず利き手を交換するところから始まった。子供の時分に経験済みだったため、すぐに何でも右手で自由に操れるようになった。

 当時の勤務先の松戸市立病院には、電子カルテが入っていた。仕事に復帰するには、パソコンのキーボード入力が出来なくてはならない。右手のみで入力する特殊な装置はあるが、普通のキーボードを使えるようにならないと復帰の支障になる。全く機能を失った左手は、押さえにもならないため、紙面の書字にはバインダーが必須だ。

 入院中、手術器具を持ち込んでもらい、触れてみたが、術者としての復帰は不可能だと再確認するだけの意味しかなかった。50歳はメスを納めるには早過ぎるが、医療安全の観点からも、メスを放棄すべきことは、受け入れ難くても事実だった。それでも「外科」の看板を下ろすことは考えなかった。手術に至るまでの診察、検査、診断を行い、どのような手術をするかを決めることなら出来る。そして、第1助手として手術に入りたかった。

 そのためにはまず、術中、何にも掴まらずに立ち続ける訓練をする必要があった。次に片手縫合、右手の訓練にも力が込もった。関節注入、神経ブロック検査、脊髄造影検査も右手だけで行えるようになった。普段から両手を使って手術を行っていたことが幸いした。「手術は両手が等しく使えて一人前だと思っていた」からだ。

 脳卒中を起こす人は70〜80歳代の人が多い。それに比べ、50歳になりたて、スポーツで鳴らした健康体で体力はあり余り、病室にとどまっていることはできなかった。

 「部屋でじっとしていると、将来が不安で様々なことがよぎるのが、つらかった。それを避けるため、わざと一日中体を動かしていた」

 丹野の血圧を測定しようにも、部屋にいないことが多かった。主治医からは「リハビリをやり過ぎると、筋緊張(痙縮)が高まってしまう」と諭されはしたが、止められることはなかった。

 「リハビリで体が全く元通りになるわけではないが、何もしなければ、機能が落ちていくだけだ」

 入院から115日目、6月30日に退院の日を迎えた。院内で出来るリハビリは全て終えていたことから、丹野自身が退院の日を決めた。

 退院は新たな人生のスタートの号砲だった。7月、8月は自宅療養で、酷暑の中、電車とバス、徒歩の通勤の練習にも励んだ。病院では手術場を覗き、研究室で英語論文書きもした。自宅でも衣食住全てがリハビリになった。階段は手すりが必要だが、装具を用いれば短い平地歩行には杖は不要となるまで回復した。2本足で生活するために自宅の改築はしなかった。そして、スポーツ用具や趣味のマジックの道具など、使わない物を捨てる作業。処分しないと、吹っ切れないとの思いからだ。

 9月には、念願の手術場への復帰を果たしたものの、その半年後の3月、市立病院を辞することを決めた。三次救急を掲げる病院の部長でありながら、自分は救急対応も当直も出来ない。そこで、当直のみを免除してもらう条件で、出身の千葉大学の関連病院である松戸整形外科病院に移った。

 発症からちょうど9年の月日が流れようとしている。“執刀をしない外科医”として、はた目には完全復帰を果たしたように見える。

医学の世界に奇跡はない

 患者のほとんどは、丹野の障害を何も知らずに来院する。患者として座っているだけでは何も分からないが、触診にも処置にも右手しか使っていないので、次第に丹野の不自由さに気が付くようだという。手術が必要な患者には、「この通り半身が不自由なので、手術は出来ない。同僚で同じ脊椎外科専門の医師が執刀するが、一緒に入って、手術後もきちんと診療します」と、手術内容を説明すると、患者の不安は一掃される。これまで、転院を希望したり、苦情や不安を訴えてきた患者はいない。手術場では、的確な指示を出して術者をアシストし、若手を育てている。

 並の外科医であったら、“外科”を諦めているはずだが、これは、決して奇跡ではない。

 「医学の世界に奇跡はない。例えば余命を宣告された人も、いろいろな条件が揃って生きている。私は(両手を使う)紐結びは出来ないが、右手で出来ることは、練習したので出来るようになった」

 屋外では装具無しには歩けないが、マラソン大会にも復帰した。制限時間を設定していない大会であれば、“完歩”して最後尾でゴールインできる。杖をつきながら高尾山にも何回か登った。

 それでも、多くのことを諦めた、我慢だらけの人生だ。高尾山を駆け抜けたい、フルマラソンをもう1度走ってみたい、ボールを思いきり蹴ってみたい……。そして未だにメスを握る自身の夢を見て、深夜目覚めるとメスが無いことに気付いてショックを受ける。

 「自分もまだ左片麻痺という障害を完全には受け入れられないんですけどね。患者さんには、病気や障害と共存していく術を身に付けてもらいたい。治らない症状をいつか治ると言い、治療を続けるのは罪悪だし、私のやり方ではない」

 5年先、10年先の将来への不安は、なおある。70歳、80歳になった自分の生き方が見出せない。それでも、一病息災。「還暦まであと1年に迫り、運動は少し控えめにしないと」と。日常生活で気を付けているのは、絶対に転ばないこと、右手を怪我しないこと、そして十分な睡眠を取ることだ。病に倒れてから眠れぬ夜が怖かった。発病にも、不眠から来る疲労やストレスが無関係ではなかった。9年間、睡眠導入剤の服用は欠かせない。酒量も発病前の3合まで戻したが、半分は眠ることが目的だ。

 当時、高校1年と中学3年で、反抗期だった2人の息子たち。自分のことで必死だったが、長男は医学部5年生に、次男は医師以外の道を選び大学卒業と就職を控えている。

 「医師だから周りの人に支えられ、デスクワークが中心でも復帰できた」と振り返る。最後に「病で得たものは」の問い掛けに、「忍耐力と人に感謝する気持ち」と答えた。 (敬称略)


【聞き手・構成/ジャーナリスト・塚崎朝子】

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